- zengyo_bot
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@bot_miura9 そうだ、三浦殿。念のためにお聞きしたいのですが、母と結婚されたのはいつごろになるでしょうか?記憶があまりないもので…。
2013-04-15 22:34:58オレも曖昧なのですが胤連の生年が1204年……とすると、頼家様が修善寺に向かわれた後〜1204年の2月までの間となりますね。RT@zengyo_bot: そうだ、三浦殿。念のためにお聞きしたいのですが、母と結婚されたのはいつごろになるでしょうか?記憶があまりないもので…。
2013-04-15 22:41:51俺の幼名は千寿(手)。父は鎌倉幕府の第二代将軍源頼家、母は一品房昌寛の娘(祖父源頼朝の右筆であった僧)といわれている。つまりさっきも言ったけど、禅暁の同母兄弟ってことになる。父が鎌倉を追われた後、母は三浦胤義殿と結婚した。
2013-04-15 22:56:11俺の人生が大きく動いたのはあの時だったか…。泉親衡ってやつに、将軍になる気はないか?って言われたとき…。俺自身はあんま興味なかったけど。
2013-04-15 23:06:59この話は建保元(1213)年2月に幕府方にバレた。俺はその年の11月に出家、栄西殿の弟子になり法名を「栄実」とした。この間に和田合戦があったけど、それは三浦殿が解説していると聞いたので省略しよう。実はこの陰謀に和田の人間の一部が絡んでいた。
2013-04-15 23:26:31ちなみに俺を将軍にしようと考えていた泉親衡は信濃源氏とされているし、この陰謀に加担した勢力にも信濃の者が多かった。妹の竹御所も母が木曽義仲の娘だとする説もあるし…なんか木曽に縁があるのかな、俺たちって。
2013-04-15 23:33:53如意ヶ岳の南側に園城寺の別院にあたる如意寺ってのがあって、公暁兄上や俺がそこの門跡を務めてたこともあったんだ。門跡は…うーん、たぶん住職ってとこかなぁ。
2013-04-15 23:54:10そして建保2(1214)年11月13日、俺のもとに和田の残党が集まっていたことから謀反を企んでいるとされ、一条北辺の宿舎にいたところを幕府方に襲われて自害した。14歳のときだったな…。
2013-04-16 00:10:46