- Yukarin_7TP
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司祭教育を放擲した同志は、トビリシの中央気象台にて気象局員の仕事に就きます。比較的安月給であったが、仕事の負荷は軽かったそうです。勤務のかたわら、ロシア社会民主労働党の地方組織に参加します #purauda
2013-06-16 21:49:341901年4月3日の夜、オフラーナはトビリシにて、ロシア社会民主労働党の多くの指導者を逮捕、同志は気象台でオフラーナの諜報員が待ち伏せしているのを見つけたことで捕獲を免れます #purauda
2013-06-16 21:59:021901年に中央気象台を辞め、地下組織に潜って政治活動を行います。同志はバクーに本拠を置く過激な新聞社「Brdzola」で革命の記事を書き始めます #purauda
2013-06-16 22:01:5510月、同志はバトゥミの精油所を所有しているロスチャイルド家で働くきます。その地で労働者を組織した同志は、1902年に精油所で起こった火事に巻き込まれ、経営者を騙して労働者に賞与を渡させることを目論みました #purauda
2013-06-16 22:06:00しかし、経営者は放火を疑ったため、支払いを拒否。これは、労働者を組織した同志の逮捕、そして街のコサックとの衝突という一連のストライキに至ります。刑務所内の仲間を脱獄させる試みの1つとしてコサックが介入したとき、スト参加者13人が殺されました #purauda
2013-06-16 22:08:041902年4月18日、当局はついに、密会の場でヨシフを逮捕。1903年、当局はヨシフをシベリアへ3年間追放することになります #purauda
2013-06-16 22:11:22この間、ロシア社会民主労働党内で、レーニン派のボリシェヴィキとユーリー・マルトフ派のメンシェヴィキという、対立する2つの派閥ができたことを聞き、ヨシフは、レーニンの党派に加わることを決めます #purauda
2013-06-16 22:15:051904年1月17日に列車に乗ってシベリアから逃亡、その10日後にトビリシに到着。ヨシフは社会民主労働党の委員に選ばれます。#purauda
2013-06-16 22:18:401905年12月、ヨシフとほかの活動家2人は、フィンランドのタンペレにて開催されたボリシェヴィキ協議会で、カフカース代表に選出。1906年1月7日、ヨシフはこの地で初めてレーニンと直接出会いレーニンの人格と知性に感動したそうです #purauda
2013-06-16 22:28:121906年4月、ヨシフはロシア社会民主労働党第4回大会に出席。1906年7月28日、活動の傍らヨシフは同じグルジア系で仕立て屋の娘だったエカテリーナ・スワニーゼと結婚します #purauda
2013-06-16 22:32:511907年3月31日、エカテリーナはヨシフの最初の子供であるヤーコフ・ジュガシヴィリを出産しますが、その数ヵ月後にチフスに罹患して12月5日に死亡します。妻の死は彼を一層に非情にし、生まれた息子のヤーコフを疎み、生涯冷淡な態度で接します #purauda
2013-06-16 22:34:221907年にロンドンで開かれたロシア社会民主労働党第5回大会にレーニンと共に出席。その後革命活動を再開、より多くのストライキと社会運動)を組織します。しかし贋金造りと強盗をし、オフラーナの追跡を受け、1908年4月7日に逮捕されます #purauda
2013-06-16 22:38:49