@penewax さんによる「むのたけじの言葉」

「戦争とはどんなものか」 不屈の98歳ジャーナリストむのたけじさんの言葉を、今こそ胸に刻もう
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watanabe @penewax

むのたけじ「少なくとも、戦争のことを一番よく知っているのは、実際に戦場で戦った人たちです。ところが、戦場に行けばわかりますが、行ってしまえばもう「狂い」ですよ。相手を先に殺さなければこちらが殺される、という恐怖感。これが、朝昼晩ずっと消えることがない」

2013-12-10 10:21:24
watanabe @penewax

むのたけじ「三日ぐらいこれが続くと、誰でも神経がくたくたになって、それから先は「どうにでもなれ」という思考停止の状態になってしまうんです。したがって、戦場から反戦運動というものは絶対に出て来ません」「戦争絶滅へ、人間復活へ - 九三歳、ジャーナリストの発言」岩波新書/2008年

2013-12-10 10:21:54
watanabe @penewax

むのたけじ「殺さなければ殺されるという狂いの状態で、三日間はなんとか神経を維持出来るけれども、あとは虚脱状態でなげやりになってしまう。もし、父親が自分の戦争体験を子供に語ろうとしても、何か立派なことを言えると思いますか。おそらく、何も言えないでしょう」

2013-12-10 10:22:10
watanabe @penewax

むのたけじ「太平洋戦争が始まって、最初の一年半ぐらいはまだ幻想があった。しかしすでに1942年6月のミッドウェー海戦で日本海軍は大打撃を受けて戦意をそがれ、日本陸軍は8月のガダルカナル島上陸で、「転進」という名の敗北を始めつつあった」

2013-12-10 10:23:25
watanabe @penewax

むのたけじ「(従軍記者だった)私が本社の社会部に戻れという指令を受けたのは、その年の11月の終わりです」「久しぶりに自宅に戻って驚いたのは、こうも食うものがなかったのか、ということでした。その年の日本の合言葉が「撃ちてし止まむ」で、翌年は「玉砕の英霊に続け」」

2013-12-10 10:23:45
watanabe @penewax

むのたけじ「そして、1945年には、もう号令のこだまさえ聞こえなくなっていた。よろけながら、日本人が降伏の谷底へと落ち込んで行った三年間だったのです」

2013-12-10 10:24:06
watanabe @penewax

むのたけじ「もはや生きているから生き、戦っているから戦うだけ、という気分のなかで、新聞はいったい何をしていたのか。ひたすら号令者の側に立って、その忠実な伝達者であることにとどまっていました」

2013-12-10 10:24:43
watanabe @penewax

むのたけじ「東京の朝日新聞社の社会部で、遊軍のメンバーに戻った私も、この惰性の外側には立てませんでした」

2013-12-10 10:24:58
watanabe @penewax

むのたけじ「新聞は戦意昂揚の記事で埋まり、私も「靖国の遺児の記事を書き、「女性総進軍」の連載ものを書き、元帥山本五十六の国葬記にはおおげさに悲壮の漢字を並べた。まさに惰性でそうしているだけで、敗戦という結末も、自分の実感として受け止めることはできなかった」

2013-12-10 10:25:16
watanabe @penewax

むのたけじ「当時、B29による本土爆撃はすさまじくなる一方だった。私は空襲があるたびにに現場に向かいましたが、どんな空襲のあとでも、軍の発表は「被害軽微」だったので、現場を見ても何も書くことはできませんでした」

2013-12-10 10:25:35
watanabe @penewax

むのたけじ「1945年3月10日未明に東京の下町一帯が空襲された際も、私はまだ熱気が満ちていた朝の焼け跡を駆け回っていました。真夜中のたった二時間半の空爆で、十万人の人間と二十七万戸の家屋が焼き尽くされた光景・・・」

2013-12-10 10:25:59
watanabe @penewax

むのたけじ「網膜に焼きついたその光景は、出来合いのどんな言葉でも表現ではないほどだった」「呼吸困難になるほどのショックを受けて、しばらくすると、腹の底からはげしい怒りがこみ上げてきた。こんな馬鹿なことがあるものだろうか、あっていいのだろうか、と」

2013-12-10 10:26:16
watanabe @penewax

むのたけじ「炭化して散乱している死者の誰一人として、自分がこうなる運命の発端には参画していないし、相談も受けてはいない。自分から選んだ運命ではない」

2013-12-10 10:26:30
watanabe @penewax

むのたけじ「しかし、戦争はいったん始まってしまうと、いっさいが無差別で、落下してくる爆弾は、そこに住む人々の性別、老幼、貧富、考えの新旧などには目もくれず、十把ひとからげに襲いかかってくるのだ、と痛感させられました」

2013-12-10 10:26:48
watanabe @penewax

むのたけじ「始まってしまうと、戦争は自分で前に歩き出してしまい、これはもう誰も止めようがない。完全に勝敗が決まるか、両方とも共倒れするか、そのどちらかしかない。さっきも言ったように、「狂い」の状態にある戦場から反戦運動が出てくることは、まずありえません」

2013-12-10 10:27:01
watanabe @penewax

むのたけじ「それなら、戦争を遂行中の国内から反戦運動が出てくるかと言えば、やはりそうはならない」

2013-12-10 10:27:26
watanabe @penewax

むのたけじ「なぜなら、戦争状態になると、生活が困難になるということもありますが、国民同士が精神的に、国家の機密を守らなければだめだ、というように変わっていくんです」http://t.co/gLC7ffr5tC

2013-12-10 10:27:42
watanabe @penewax

むのたけじ「(戦争)当時はいろいろな軍事訓練が行われていて、それを怠けただけでも「あいつは非国民だ」と非難されてしまう。それが怖いから、いやでも参加する。家庭の中にまでそれが入りこんでくる」

2013-12-10 10:28:05
watanabe @penewax

むのたけじ「夫婦であってもそれぞれが、世間から後ろ指をさされないようにしよう、と考えるようになって信じ合えなくなるんです」

2013-12-10 10:28:21
watanabe @penewax

むのたけじ「だから、家族がバラバラになってしまった。敗戦後の民法などで、三世代同居だった家族が夫婦だけになって、親子関係がこわれたと言いますが、じつはそれ以前の戦争中に、地域の構造や組織にも、家庭の親子関係や夫婦関係にも、亀裂がたくさん入ってしまっていたんです」

2013-12-10 10:28:56
watanabe @penewax

むのたけじ「そして、戦争中はうそをつかなければ生きられない。夫が戦死しても、妻は人目がないところで号泣しながら、人前では涙も見せず、「軍国の妻」「靖国の母」と誉められるように、ふるまわなければいけなかった」「家族や地域がそういう相互監視の状態になってしまった」

2013-12-10 10:29:18
watanabe @penewax

むのたけじ「では、新聞社のなかではどうだったか。当時、新聞社のなかに、特高とかあるいは検閲官が来て「これは掲載出来ません」とか、「これはだめです」なんて言ったことは一度もありません。新聞社がみずから自己規制を始めてしまうんです。新聞も雑誌も出版も全部そうだった」

2013-12-10 10:30:26
watanabe @penewax

むのたけじ「自己規制をどんどんやるようになる。新聞社自体が、自縄自縛状態に陥ってしまったんです。新聞社はなぜ反戦運動ができなかったか、と言われますが、できるわけがないんですよ」

2013-12-10 10:30:39
watanabe @penewax

むのたけじ「朝日新聞社の主筆だった緒方竹虎が、戦争が終った翌年に新聞協会で講演をしました。そのとき彼は、「太平洋戦争のときは軍部が怖くて真実を書くことができなかった。国家に対する反逆の記事を載せたといって、会社をつぶされてしまうだろうと思ったからだ」」

2013-12-10 10:31:01
watanabe @penewax

むのたけじ「「けれども、実際に戦争をやって終ったときの軍部の姿を見れば、そんなに怖くはなかった。朝日と毎日の二社が協力すれば、軍部の戦争計画をあばいて、とめることもできたはずだ」というようなことを言ったんです」

2013-12-10 10:31:17