@penewax さんによる「むのたけじの言葉」
- freie_Herz
- 2479
- 0
- 0
- 0
むのたけじ「少なくとも、戦争のことを一番よく知っているのは、実際に戦場で戦った人たちです。ところが、戦場に行けばわかりますが、行ってしまえばもう「狂い」ですよ。相手を先に殺さなければこちらが殺される、という恐怖感。これが、朝昼晩ずっと消えることがない」
2013-12-10 10:21:24むのたけじ「三日ぐらいこれが続くと、誰でも神経がくたくたになって、それから先は「どうにでもなれ」という思考停止の状態になってしまうんです。したがって、戦場から反戦運動というものは絶対に出て来ません」「戦争絶滅へ、人間復活へ - 九三歳、ジャーナリストの発言」岩波新書/2008年
2013-12-10 10:21:54むのたけじ「殺さなければ殺されるという狂いの状態で、三日間はなんとか神経を維持出来るけれども、あとは虚脱状態でなげやりになってしまう。もし、父親が自分の戦争体験を子供に語ろうとしても、何か立派なことを言えると思いますか。おそらく、何も言えないでしょう」
2013-12-10 10:22:10むのたけじ「太平洋戦争が始まって、最初の一年半ぐらいはまだ幻想があった。しかしすでに1942年6月のミッドウェー海戦で日本海軍は大打撃を受けて戦意をそがれ、日本陸軍は8月のガダルカナル島上陸で、「転進」という名の敗北を始めつつあった」
2013-12-10 10:23:25むのたけじ「(従軍記者だった)私が本社の社会部に戻れという指令を受けたのは、その年の11月の終わりです」「久しぶりに自宅に戻って驚いたのは、こうも食うものがなかったのか、ということでした。その年の日本の合言葉が「撃ちてし止まむ」で、翌年は「玉砕の英霊に続け」」
2013-12-10 10:23:45むのたけじ「そして、1945年には、もう号令のこだまさえ聞こえなくなっていた。よろけながら、日本人が降伏の谷底へと落ち込んで行った三年間だったのです」
2013-12-10 10:24:06むのたけじ「もはや生きているから生き、戦っているから戦うだけ、という気分のなかで、新聞はいったい何をしていたのか。ひたすら号令者の側に立って、その忠実な伝達者であることにとどまっていました」
2013-12-10 10:24:43むのたけじ「新聞は戦意昂揚の記事で埋まり、私も「靖国の遺児の記事を書き、「女性総進軍」の連載ものを書き、元帥山本五十六の国葬記にはおおげさに悲壮の漢字を並べた。まさに惰性でそうしているだけで、敗戦という結末も、自分の実感として受け止めることはできなかった」
2013-12-10 10:25:16むのたけじ「当時、B29による本土爆撃はすさまじくなる一方だった。私は空襲があるたびにに現場に向かいましたが、どんな空襲のあとでも、軍の発表は「被害軽微」だったので、現場を見ても何も書くことはできませんでした」
2013-12-10 10:25:35むのたけじ「1945年3月10日未明に東京の下町一帯が空襲された際も、私はまだ熱気が満ちていた朝の焼け跡を駆け回っていました。真夜中のたった二時間半の空爆で、十万人の人間と二十七万戸の家屋が焼き尽くされた光景・・・」
2013-12-10 10:25:59むのたけじ「網膜に焼きついたその光景は、出来合いのどんな言葉でも表現ではないほどだった」「呼吸困難になるほどのショックを受けて、しばらくすると、腹の底からはげしい怒りがこみ上げてきた。こんな馬鹿なことがあるものだろうか、あっていいのだろうか、と」
2013-12-10 10:26:16むのたけじ「炭化して散乱している死者の誰一人として、自分がこうなる運命の発端には参画していないし、相談も受けてはいない。自分から選んだ運命ではない」
2013-12-10 10:26:30むのたけじ「しかし、戦争はいったん始まってしまうと、いっさいが無差別で、落下してくる爆弾は、そこに住む人々の性別、老幼、貧富、考えの新旧などには目もくれず、十把ひとからげに襲いかかってくるのだ、と痛感させられました」
2013-12-10 10:26:48むのたけじ「始まってしまうと、戦争は自分で前に歩き出してしまい、これはもう誰も止めようがない。完全に勝敗が決まるか、両方とも共倒れするか、そのどちらかしかない。さっきも言ったように、「狂い」の状態にある戦場から反戦運動が出てくることは、まずありえません」
2013-12-10 10:27:01むのたけじ「なぜなら、戦争状態になると、生活が困難になるということもありますが、国民同士が精神的に、国家の機密を守らなければだめだ、というように変わっていくんです」http://t.co/gLC7ffr5tC
2013-12-10 10:27:42むのたけじ「(戦争)当時はいろいろな軍事訓練が行われていて、それを怠けただけでも「あいつは非国民だ」と非難されてしまう。それが怖いから、いやでも参加する。家庭の中にまでそれが入りこんでくる」
2013-12-10 10:28:05むのたけじ「だから、家族がバラバラになってしまった。敗戦後の民法などで、三世代同居だった家族が夫婦だけになって、親子関係がこわれたと言いますが、じつはそれ以前の戦争中に、地域の構造や組織にも、家庭の親子関係や夫婦関係にも、亀裂がたくさん入ってしまっていたんです」
2013-12-10 10:28:56むのたけじ「そして、戦争中はうそをつかなければ生きられない。夫が戦死しても、妻は人目がないところで号泣しながら、人前では涙も見せず、「軍国の妻」「靖国の母」と誉められるように、ふるまわなければいけなかった」「家族や地域がそういう相互監視の状態になってしまった」
2013-12-10 10:29:18むのたけじ「では、新聞社のなかではどうだったか。当時、新聞社のなかに、特高とかあるいは検閲官が来て「これは掲載出来ません」とか、「これはだめです」なんて言ったことは一度もありません。新聞社がみずから自己規制を始めてしまうんです。新聞も雑誌も出版も全部そうだった」
2013-12-10 10:30:26むのたけじ「自己規制をどんどんやるようになる。新聞社自体が、自縄自縛状態に陥ってしまったんです。新聞社はなぜ反戦運動ができなかったか、と言われますが、できるわけがないんですよ」
2013-12-10 10:30:39むのたけじ「朝日新聞社の主筆だった緒方竹虎が、戦争が終った翌年に新聞協会で講演をしました。そのとき彼は、「太平洋戦争のときは軍部が怖くて真実を書くことができなかった。国家に対する反逆の記事を載せたといって、会社をつぶされてしまうだろうと思ったからだ」」
2013-12-10 10:31:01むのたけじ「「けれども、実際に戦争をやって終ったときの軍部の姿を見れば、そんなに怖くはなかった。朝日と毎日の二社が協力すれば、軍部の戦争計画をあばいて、とめることもできたはずだ」というようなことを言ったんです」
2013-12-10 10:31:17