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つも(1)朝日新聞の取材で東京国立博物館を訪れ、キトラ古墳の壁画を見たとき、驚いたのはその線の優美さだった。美大生があの描写を見たら、驚くだろう。そして、古墳の壁に描かれたその絵が、近代と最も異なる点は、「描かれたら、もうそれでおしまいで、二度と見られることはない」ということ。
2014-06-01 06:30:15つも(2)古墳には盗掘がつきものだが、それは後世のできごとであり、亡くなった方を埋葬し、その空間を副葬品や壁画で設えるという行為において、当時の「アーティスト」(敢えてこの言葉を使うことで近現代と接続してみる)は、一度つくった作品と、もう二度と会うことがないのだ。
2014-06-01 06:31:45つも(3)以前、港千尋さんの著作で、「目の見えない写真家」のことを読んだことがある。彼は、自分の作品を見ることがない。暗い部屋で、わずかな光源を用いて、モデルの身体に近接して撮影する。彼にとっては、カメラのシャッターを押した瞬間に、写真を撮るという行為は完結している。
2014-06-01 06:32:56つも(4)副葬品は、死者とともに埋めてしまって、もう二度と会うことがないのに、心を込めてそれをつくった古代のアーティストの気持ちは、どのようなものだったのだろう。先日、『目の眼』の取材で六本木の「古美術下條」を訪れたとき、実に瞠目すべき「女官俑」と出会った。
2014-06-01 06:34:41つも(5)ここに、「俑」とは、「兵馬俑」にもあるように、死者とともに埋葬した人形のことである。さらに古代にさかのぼれば、生身の人間を一緒に埋めていたのが、「俑」を埋めるようになったのである。私が見た女官俑は、実に優美で、鯨のようにふっくらとした身体を持っていた。
2014-06-01 06:36:59つも(6)これが、その女官俑の写真である。(顔の部分)。全体の姿や、取材の経緯を知りたい方は、私の盟友、白洲信哉(@ssbasara)が編集長の「目の眼」(menomeonline.com)次号に掲載されるから、そちらで。 pic.twitter.com/ykv4oQztrA
2014-06-01 06:41:10つも(7)つくったら、もう見ない。それでオワカレ、というのは、作品を生み出したら、できるだけ多くの人に見てもらいたい、自分でも確認したい、記録しておきたいという現代のアーティストとは随分異なる心性である。どちらがいい悪いではない。違った心根が、古代には存在したのだ。
2014-06-01 06:42:35つも(8)もっとも、つくったら、もう見ないというのは、注意深く考えれば私たちの日常にも存在する断面だろう。なにか嬉しいことがあった時のとびっきりの笑顔は最高の芸術でもあるが、笑う人は自分を見ない。見た人も、撮影はしないことが多いから、つくったら、もう見ないで消えていく。
2014-06-01 06:43:41つも(9)なぜ、古の焼き物の中には名品が多いのに近代では難しいかの議論に、昔の作り手は作家性という意識がなく、とらわれずにつくっていたからだという話がある。そう考えると、副葬品の中に素晴らしいものがあるのは当然のことかもしれない。自我にとわれれない時、人は最高のものに到達する。
2014-06-01 06:45:09