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ブダペストでの休暇から戻りました。1989年8月19日、つまり四半世紀前の今日、東独から逃げ出した市民約千名がオーストリアとの国境を越えて出国するという事件がありました。ボンとブダペストの政府、そして教会や市民団体が綿密に練り上げた計画の成果でした。
2014-08-19 16:37:46国境の近くで「ヨーロッパ・ピクニック」と呼ぶ集会を開く、その催しを告げるチラシをドイツ語で作成し、ブダペストに滞留している東独市民に撒く、その催しの真の意味を噂の形で伝える、表向きにはドイツ政府もハンガリー政府も関与しない、というアレンジでした。
2014-08-19 16:42:20当時の東独市民は、「社会主義兄弟国」にしか出国できず、そこからさらに「鉄のカーテン」を越えて西に逃げることはできない、という仕組みになっていました。ところがハンガリーのような「兄弟国」が出国審査を怠るようになると、国も仕事も捨てて出国する流れに、歯止めがかからなくなりました。
2014-08-19 16:47:46「ヨーロッパ・ピクニック」のあと、話を聞いた大量の東独市民が、ブダペストなどハンガリー各地に逃れます。約一ヶ月後、冬の到来を前に、「人道上の理由」でハンガリー政府が彼らの出国を認めたため、東独政府が国民全部を牢獄に入れていた「壁」に、バイパスが空いてしまいました。
2014-08-19 16:54:22東独からの逃亡者は、二ヶ月で約20万人。人口1600万の国から、若くて元気で自由を求める気概のある人材がいきなりそれだけ抜けたわけですから、社会システムが麻痺しそうになりました。
2014-08-19 16:58:56東独政府は、「社会主義兄弟国」を含めて外国への市民の出国を全面的に禁止し、国境を封鎖することで対抗します。残った東独市民は、大規模なデモを敢行しました。毎週月曜日に行なわれるデモに50万人も参加するようになって、体制が動揺します。
2014-08-19 17:02:0710月、死ぬまで独裁を続けると思われたホーネッカー書記長が失脚し退陣、後任のクレンツも自己の立場を固める権力闘争に汲々とする状況で、11月9日、社会主義統一党中央委員会は、市民の出国を認める党政治局からの提案を承認してしまいます。そのあとは、よく知られた展開になりました。
2014-08-19 17:07:51当時ドイツに住んでいて、東独のデモがニュースに流れるたび「この人たち、素顔をさらしているけど、大丈夫なんだろうか」と気を揉んでいた者には、その発端となった「ヨーロッパ・ピクニック」の地は、一度行ってみたいところでありました。
2014-08-19 17:10:41