天上の音楽

即興小説です。
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さささ @sasasa3397

カーテンの開いた窓からは、黒く、細いシルエットの塔が見える。ちょうど20年前に神様が天使たちを遣わして建てた塔だ(外国の人は話半分で聞くけど、これはほんとのことだ)。私はその時まだ生まれていなかったから、どれくらい神々しい出来事だったのかはよく知らない。

2015-10-15 01:12:20
さささ @sasasa3397

塔が出来上がると、神様は今度はその無慈悲さを発揮した。作業員である天使たちを地上に追放したのだ。彼らは羽を失い、人として暮らすことを余儀なくされた。塔の完成より、どちらかというと突然増えた人口の方が大問題になったようで、この日はあまり派手な祝いの日にはなっていない。

2015-10-15 01:14:23
さささ @sasasa3397

そんな風にして、理不尽に堕とされた元天使の一人が、私の目の前にいて、じっとギターの音に耳を傾けている。ここは彼の部屋だ。普段何をしているのかは知らない。私は呼ばれて、楽器を演奏しているだけだ。彼らは女を買う代わりに、こうやって音を買う。天上のそれの代わりにはならないだろうけど。

2015-10-15 01:17:04
さささ @sasasa3397

元天使といっても、今はもういい年だ。気さくに笑う禿げたおじさんがそうだったり、なんてことはよくある話で、でも、彼は未だに当時の天使らしさを保ち続けていた。長い、少し波打った髪。彫りの深い、白い顔。あまり老けた様子は見られない。私は、頼まれた曲を爪弾きながら、ちらりとその顔を見る。

2015-10-15 01:20:33
さささ @sasasa3397

音大生の間では定番のバイトで、私もごく軽い気持ちで応募して、簡単に受かった。最近は少し注文も少なくなってきているらしい、ということで、だから素直に喜んだ。注文が減っている理由が、元天使の寿命の短さにあるということは、始めてから知った。けど、私にどうこうできる話でもなし。

2015-10-15 01:22:58
さささ @sasasa3397

彼は、大きく目を見開いて、私を見ていた。いや、私の向こうにある何かを見ていた。注文されたのは、ダウランドの「涙のパヴァーヌ」。元はリュートで奏でる曲で、それをギター向けに直したものを、私は演奏していた。

2015-10-15 01:25:56
さささ @sasasa3397

最後の音が鳴り終わると、彼は軽く目元をこすり、ありがとう、と言った。私は営業スマイルでそれに応える。握手を求められたので、手を差し出した。握ったその手が、不自然に痩せていることに気づいた。彼は無言で窓の外を、雲に隠れた塔の先を見る。先ほど、私を見ていたのとどこか似た目つきで。

2015-10-15 01:29:25
さささ @sasasa3397

「私、そろそろお暇します」時計をちらりと見、私は立ち上がった。「またご用があればご指名ください」「うん、でも多分、君が最後の僕の演奏者になると思うよ」彼が言う。「僕もそろそろ帰るんだ、ずっと高いところにね」ああ、やっぱり、と私は思った。痩せた手。落ち窪んだ目。あの不思議な目つき。

2015-10-15 01:33:52
さささ @sasasa3397

元天使にとって、それは嬉しいことなのかどうか。尋ねそうになって、慌てて口をつぐんだ。顧客への深入りは厳禁だ。「それは……」「だから、最後の人がいい音を奏でる人で良かったよ」彼は頷く。「君の演奏は、少し天上の音楽を思い出した」やめてください、私はそう言いかけた。

2015-10-15 01:37:58
さささ @sasasa3397

私は、だって、ちょっと演奏が上手いからって調子に乗って、学校の勉強を疎かにして、こんな風にバイトにうつつを抜かして、そんな人間なのだ。そんな奴の音が、特別な美しいものであってたまるものか。自己嫌悪が、わっと堰を切ったように流れ出す。

2015-10-15 01:40:12
さささ @sasasa3397

「君はきっと、もっと上手くなるよ」内心の思いを知ってか知らずか、元天使は柔らかに笑う。「もう聴けないのが残念だけどね。さあ、時間だ。ありがとう、ありがとう」代金は先に受け取ってある。私は型通りの挨拶を残してその場を去った。ぱたん、とドアの閉じる音が、やけに耳についた。

2015-10-15 01:43:06
さささ @sasasa3397

それから、しばらくバイトは休んだ。学校の方は、まあ、以前よりは定期的に通っている。それから、図書館に通って、神学だの文学だのの本を借りては、難しさに負けてすぐに返したり、そんなことを繰り返した。ギターはよく練習している。しなくちゃいけない気がして。

2015-10-15 01:45:53
さささ @sasasa3397

先日、友人何人かの前で軽く演奏をした。彼らはよかったよかったと口々に褒めてくれた。「天上の音楽みたいだった?」私がそう言うと、何かの冗談だと思ったのだろう。皆一斉に大口を開けて笑い出したのだった。

2015-10-15 01:48:17