即興小説・私のぼやけた目の話

即興小説です。
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佐々木匙@やったー @sasasa3396

解像度の低い視界を持って生まれました。人も風景も、微妙にモザイクがかって見えるのが私の世界。そうでない光景を知りません。弱視と違うのは、眼鏡で補正できないこと。見えないというほど辛くはないけど、見えづらさはずっとついて回ります。

2016-02-19 03:41:23
佐々木匙@やったー @sasasa3396

美術の時間が苦手です。他の人に見えている細かいものや影や色が、私の目には見えません。先生は事情を知っていますから甘く見てもらえていますが、成績は当然良くありません。作品がずらりと並ぶと、私の絵だけ平面的でやたらとデフォルメされた漫画のよう。それくらいは私の目にもわかります。

2016-02-19 03:43:24
佐々木匙@やったー @sasasa3396

国語の時間も苦手です。文字を読むのはまあ、慣れですからなんとかなりますが、難しい漢字にはまごつきます。それだけではなく、なんだか私の文章への理解もどこかぺたっと表面的なようなのです。他の人たちが読み取る細かい機微を、私はいつも見逃します。自分だけ別の話を読んでいるみたい。

2016-02-19 03:45:28
佐々木匙@やったー @sasasa3396

人付き合いも、あまり得意ではありません。解像度の低い視界では、人の顔を見分けるのがなかなか難しいものですから。それに、時々奇異の目を持って見られるのは気持ちのいいものではありません。国語の時間みたいに、変なことを言って笑われたりするのもしょっちゅうでしたし。

2016-02-19 03:47:28
佐々木匙@やったー @sasasa3396

こんなに苦手なことばかりで、私は将来どうするのだろう。そんなことをよく考えます。目はともかく、頭の中の解像度が低いのは目も当てられません。オレンジ色の夕焼けが、渡り廊下を染めています。これも、普通の目ならもっとセンチメンタルで、繊細な風景に見えているはずなのに。

2016-02-19 03:50:18
佐々木匙@やったー @sasasa3396

私は俯きながら、ぱたぱたと上履きを鳴らして歩いていました。ふと、顔を上げます。何かの音が聞こえました。ピアノです。渡り廊下の向こうの音楽室でしょう。何の曲かはわかりませんが、流れるようなメロディが聞こえてきます。私はなんとなく惹かれて、そちらに歩いていきました。

2016-02-19 03:52:51
佐々木匙@やったー @sasasa3396

音は、音楽室に近寄るにつれてだんだん大きくなっていきました。私はたまに立ち止まって、目を閉じると耳を澄ませます。モザイクのない暗闇の中、音は虹色のシャボンが弾けるように響きました。虹色。私の視界ではなかなか理解しづらい概念でしたが、なんだか今、掴めそうになったような気がしました。

2016-02-19 03:55:13
佐々木匙@やったー @sasasa3396

音楽室の前にたどり着くと、私は少し迷って、そうっとドアを開けました。背の高い男の人の背中が見えます。音楽の先生だ、と思いました。私は特別な教科の担当の先生が好きです。だいたい、いる場所が決まっていて、人違いをしないので。その先生がピアノを弾いています。

2016-02-19 03:57:22
佐々木匙@やったー @sasasa3396

私はドアの前に立って、また目を閉じていました。演奏の良し悪しはわかりませんが、とてもきれいな曲だというのはわかりました。音は波で、空気や耳の中を揺らして頭に届くのだといいます。私の身体もなんだかゆらゆらと揺れるようでした。海の中ってこんなかしら、と思いました。

2016-02-19 04:01:10
佐々木匙@やったー @sasasa3396

だん、と一際大きな和音が響き、それから周りは静まり返りました。私は目を開けます。先生がこちらを見ていました。どんな顔をしているのかは、私にはよくわかりません。「いたのか」それだけ言いました。「すごく良かったです」「照れるな」その言葉のおかげで、先生が照れているのがわかりました。

2016-02-19 04:03:58
佐々木匙@やったー @sasasa3396

先生、と口を開きかけたところで、言葉がどんどん散っていくような気がしました。いろんなことを言いたかったのです。先生、こんな目の私ですけど、先生の演奏を聴いてる間はなんだか、世界が綺麗に見えるみたいでした。ポンコツな頭だけど、耳だけは少しは大丈夫なんだって、少し嬉しかったんです。

2016-02-19 04:05:55
佐々木匙@やったー @sasasa3396

先生、今の曲は何ですか。いつの時代の誰が作った曲ですか。先生はどんな気持ちで弾いていたんですか。ピアノが弾けるってどんな気持ちですか。あの白と黒の鍵盤の上を指が滑るの、本当にすごいと思ってるんです。どうしたらあんなことができるのかしら。先生。先生。先生。先生。

2016-02-19 04:08:03
佐々木匙@やったー @sasasa3396

「先生」そう口に出した声に、私はぎょっとしました。まるで涙声だったからです。声に続いて、後から後から、ぽろぽろと涙が流れてきました。「どうしたんだ」先生の声がびっくりしていること、心配そうなことがわかりました。私は、私の気持ちがわかりません。私の心は、やっぱり解像度が低いのです。

2016-02-19 04:10:26
佐々木匙@やったー @sasasa3396

「先生、私にピアノ、教えてくれませんか」だから、こんな言葉が私の口から飛び出した理由もよくわかりませんでした。わからないまま、何かの衝動に突き動かされて、私はぎゅっと拳を握りしめていました。先生がぎこちなく、くしゃくしゃのハンカチを私に手渡してくれました。

2016-02-19 04:13:01
佐々木匙@やったー @sasasa3396

あのピアノの音で急に動き出した私の一部は、なんだかこんなことを言っているようでした。先生、私、見つけた気がするんです。ぼんやりした世界の中で、少しでも綺麗に見えるもの。はっきりと輪郭を持ったもの。やっと見つけた気がするんです。逃したくないの。でも、言葉には到底できませんでした。

2016-02-19 04:14:56
佐々木匙@やったー @sasasa3396

「初歩で良ければ、少しなら教えられるよ」先生は優しく言いました。私はうんと頷いて、濡れたハンカチを先生に返しました。「お願いします。どうしても弾いてみたくなって」「またどうして急にそんなこと言い出したのかな」先生は少し笑ったようでした。

2016-02-19 04:17:22
佐々木匙@やったー @sasasa3396

私はやはりうんと頭を捻りました。心はぼんやり、言葉はばらばらで、上手く言えない気がして、黙ろうとして、それから、ぽんとこんな言葉が出てきたのです。「わからないけど、私、なんだかピアノがすごく好きみたいなんです」あっ。初めて言えた。私は息を飲みました。

2016-02-19 04:19:00
佐々木匙@やったー @sasasa3396

初めて言えました。私は、16年間生きてきて、ようやく言えたのです。ピントの合った、確かな言葉を。その時、一瞬だけ、私は見たような気がしました。深々と陰影のあるオレンジ色の夕焼けと、その光に照らされたピアノ、そして嬉しそうに笑う先生の顔、その目尻の皺までも。

2016-02-19 04:21:18
佐々木匙@やったー @sasasa3396

「私のぼやけた目の話」おわり

2016-02-19 04:22:06