たのしいセルフポートレイト【ホンマタカシ第一回WSに向けた思考の整理】
.@keihouraku (1)自分の視線(とその思考)を解きほぐすことで、セルフポートレートとしました。当時のステートメントは「無意識の視線を解きほぐすことで、自分を探り当てようとしました。 執着は視線に。視線は欲望に。欲望は救いに。なることを切に願って。」というもの。
2011-01-30 22:43:18.@keihouraku (2)セルフポートレート用(公募用)に撮りおろしたのではなく、もともとあった写真を編纂してまとめました。なので無意識下の思考の移り変わりを丁寧に手繰ることが、製作におけるほとんどのプロセスでした。
2011-01-30 22:46:51.@keihouraku (3)目は口ほどにモノを言う、なんて言葉もありますが。目で訴えるというより、視線が追ってしまうもの=自分の欲求の現れ、として写真から(写してしまったものから)自分を振り返り、何故それを写したのか、何故そのように撮ったのか、考えることで自分を読み解くと。
2011-01-30 22:51:23.@keihouraku (4)それに写真において”家族”をモチーフにするときは大抵、私写真であり、多くは主観的なものです。(被写体は他界した祖母です。)潔く主観的になろうと、この時は考えて編纂しました。(振り返ってほぐして読み解くという作業そのものはひどく客観的なものですが。)
2011-01-30 22:58:40.@keihouraku でもセルフドキュメンタリー撮ってた時は、ネタとして存在してたはずが、他者から自分が浮かび上がってた。自分を撮る=自分の周りの人と関わっていく事で、自分が思い描く自分像とは違う部分に気がつかされて 恥ずかしくてうわーってなったり。
2011-01-30 23:06:35.@keihouraku 最近写真で自分を撮る事はネタでしかない。自分は素材なだけなんだよね。こういう絵を作りたいって思って撮らせてもらえる一番手っ取り早い被写体。そこで見せたい絵の後ろに「安い私」というのが浮かび上がればと思ってる。ちょとセルフポートレートとは違うけど。
2011-01-30 23:07:28.@chimayu ということは自分の無意識を紐解くというか、客観的に編纂することが、「セルフポートレイト」ってことですね。家族写真だからそこら辺はなんとか成立するとは思うが、その無意識が全くの他人や初めて出会う人や部屋に漂うものでも成立するんだろうか?→
2011-01-30 23:15:12.@chimayu →そこら辺が個人的には実感としてつかめきれないというか、理屈ではわかるが、「本当にそうなのか?」って疑問がそれなりにあって、「セルフポートレイトだなこれ」って素直に思える自身がないというか。そこら辺は形式というか個人の写真の表現力次第なのかもしれませんが。
2011-01-30 23:17:43Flickrにある139万枚のセルフポートレイト → http://www.flickr.com/photos/tags/selfportrait/
2011-01-30 23:19:43.@keihouraku とどのつまり”自分って何だ?”ってことです。自分を写すのが本来的な(よくある)セルフポートレートだとしたら、メッセージも、”自分”なんです。最初にあったのは”自分ってどんな人間だ?”っていう疑問です。特に祖母は私の育ての親のような存在でもありましたし、→
2011-01-30 23:21:05.@yumeco6 なんか今自分の中で出ている結論めいたことだと、そのテッテー的な自分をネタ化するっていう方法は、セルフポートレイトの一つだと思うよ。もちろん巷にあふれる中途半端な自己紹介ではなくてね。だってそういう具体例で、ふと脳内で浮かんだの「高田冬彦」だからねww
2011-01-30 23:21:30@keihouraku →写真がよく「窓」と「鏡」に例えて論じられることを考えると、この場合の写真に必要なのは「鏡」としての性質です。芸術表現は自己表現として鏡としての役割を担う物も多いですが、より特化された鏡面性がセルフポートレートにはあるのかと。
2011-01-30 23:25:25.@oda_shinさんが貼ったリンクの画像、今セルフポートレイトとは?って考えている今の自分が見た感じだとすげーウザイ感じがするw おめーらうっせーよwwwなんだよそれはwwwっていう気分になる。正しい間違っているとかじゃなくて、なんか自分が考えているものとは違う気がする。
2011-01-30 23:25:28.@chimayu ・・・あー!!!!!なんかおもしろい!今自分が出している結論めいたことにかなり近いというかおんなじかも?っていうか、とりあえず、いま出ている結論めいたことを書いてみます。しばしおまちを。。。
2011-01-30 23:31:01今、自分がだしている「セルフポートレイトとは?」って言うものへの結論?めいたものは、「テッテー的な自己のネタ化」もしくは「自分という存在をメタ化して、その自分がいる世界の構造を探る」という方法論の二つです。「セルフではない」ポートレイトとは、できることが別物だと思います。
2011-01-30 23:34:13もちろん自己演出のセルフポートレイトを否定しているわけではなく、そこで自己言及的な部分がないというか、自分の中で閉じてしまうものが多い。セルフなわけだし、どうやってもイメージが自分のコントロール下に置かれるわけで、その作法に置いて他者を意識することが良く忘れがちになってしまう。
2011-01-30 23:40:27自分を鏡に映して撮る写真にあまり惹かれないのはその強化されすぎた鏡面性によってだろうか。窓やガラスに映った曖昧な自分を捉えようとするときの方が面白い。追っても逃げてしまいそうな自身の姿、鏡よりも境界がはっきりしない異世界感、鏡と違い本来の役割を離れて人の姿を映し出す物質性。
2011-01-30 23:42:09他者があるから「自分」があるわけで、そういう中で、セルフポートレイトが自己演出というよく見るポートレイトから離れるためには、自分をネタ化して演出を過剰にして(見た目の過剰さということが全てではないが)他者を意識するということ。もしくはみんなが生きている世界の構造を→
2011-01-30 23:42:29→自分を使って眼に見える形にしてみるということ。そこでの他者とのつながりは世界という共通の土台。とりあえず、今「セルフ」ポートレイトということをするときに、よくある自己演出なものから離れるにはこれしかないかなと。
2011-01-30 23:45:15そういう結論の中で、セルフができること、セルフだからできること。「ポートレイト」との相違点。「ポートレイト」ができること。「ポートレイト」だからこそできること。っていうの、ちょっくら考えてみる。
2011-01-30 23:47:28んで@chimayuさんの発言とおんなじかもといったのは、まぁこれに限らず、結局表現というもの全部に言えると思うんですが、自己言及と演出過多に大きく2つになるのだなと思ったからです。その2つを、セルフポートレートは「セルフ」が明確なため、よりはっきりした形で立ち上がってくるなと。
2011-01-30 23:50:17