高橋源一郎氏の5夜連続「小説ラジオ」ほぼ日ust

「メイキングオブ「さよなら、ニッポン ニッポンの小説2」」 第一夜、「生涯に一度しか文章を書かなかった老人の話」 第二夜、「神話的時間について」 第三夜、「一度だけの使用に耐えうることば」 続きを読む
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高橋源一郎 @takagengen

「ことば」34・だが、とぼくは思う。その頃、ぼくには、父親や母親ときちんと向かい合える「距離」がわからなかった。いまは違う。不思議なことに、いまなら、ぼくは父親や母親と向かい会える、話すことさえできるのである。つまり、記憶の中に生きている、彼らに出会うことによってだ。

2011-02-19 01:15:36
高橋源一郎 @takagengen

「ことば」35・ぼくの中に、繰り返し、繰り返し、蘇ってくる映像がある。それは、おそらく、昭和30年頃、父親が経営していた鉄工所の門の前にあった菜の花畑だ。異様なほど美しい、目の覚めるほど鮮やかな黄色い、菜の花畑を前にして、まだ若い、父親と母親が笑っている風景だ。

2011-02-19 01:17:59
高橋源一郎 @takagengen

「ことば」36・父親は白いワイシャツを着て、その横で割烹着姿の母親が並び、笑っているのである。父親は三十台前半、母親は二十八か九だろうか。こんなにも楽しく笑えるのだろうか、と思えるほど、幸福感にあふれて、彼らは笑っている。ぼくは、目をつぶり、いつもその風景に戻る。

2011-02-19 01:20:35
高橋源一郎 @takagengen

「ことば」37・ぼくは、その若い父親と母親に、それから半世紀も後に、ぼくが彼らに対してすることになる「罪」を謝るために、出かける。けれども、彼らはただ笑っているだけだ。そして、ぼくは思う。少なくと、彼らにはそんなにも幸せな時代があったのだ。それは、たぶん素晴らしいことなのだろう。

2011-02-19 01:23:15
高橋源一郎 @takagengen

「ことば」38・「ごめんなさい」とぼくはいいたい。けれど、ぼくは、その記憶の中では許されているような気がする。なぜなら、彼らが笑っているのは、おそらく、ぼくに向かってだから。まだ幼いぼくに向かって、彼らは笑いかけていたのではないだろうか。ぼくには、彼らを幸せにする力があったのだ。

2011-02-19 01:25:02
高橋源一郎 @takagengen

「ことば」39・記憶というものは、なぜ断片的なのだろう、とぼくはずっと思ってきた。もっとずっと、意味があって、繋がっていればいいのに、と。でも、そうではないのだ。ぼくの中には、笑っている両親たちのように、たくさんのシーンが隠れてる。そのたくさんのシーンの繋がりこそが、ぼくなのだ。

2011-02-19 01:27:10
高橋源一郎 @takagengen

「ことば」40・その、断片的な「物語」は、作者という存在が書く、どんな「物語」より強力ではないだろうか。なぜなら、そこには、いつも、ぼくの居場所があるからである。そこでは、みんな、ぼくに笑いかけているからだ。それは、ぼく専用の、ぼくのための「物語」なのだ。

2011-02-19 01:28:46
高橋源一郎 @takagengen

「ことば」41・父親と母親は亡くなったが、ぼくの「物語」の中ではいまも生きている。Tくんも、京都の学生も、みんな生きている。ぼくが生きている限り、彼らは死なないのである。だとするなら、ぼくがいつか死ぬとしても、ぼくの姿が、誰かの「物語」の中で生きている限り、ぽくも死なないのだ。

2011-02-19 01:31:30
高橋源一郎 @takagengen

「ことば」42・そんな「物語」は、みなさんの中にある。その「物語」の中では、あなたが主役であり、そこに登場する人々は、みんな、あなたに向って笑いかけているような「物語」が。捜す必要はないのである。み,んな、あなたの中にあるはずなのだから。ここまでです。五晩、ありがとう。

2011-02-19 01:33:16
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