編集部イチオシ

最新研究で常識が変わった19の文明交流史

中国古代史(夏~三国) 日本古代史(弥生、ヤマト王権) ・「夏殷」と「弥生」の青銅器は、ヨーロッパ(黒海北岸)から伝播したものだった ・アレクサンドロス大王の帝国と秦帝国は、交流関係があった 続きを読む
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西周は、内部の擾乱と外部西戎の攻撃で崩壊、
東周は、草原世界から洛陽周辺に移住してきた「狄」(てき)の王から妃を迎えた

巫俊(ふしゅん) @fushunia

殷墟周辺は、春秋時代前期になると、中原系とは異なる牧畜民の勢力の赤狄の支配下にあったとされ、「赤翟(てき)王」がいたので、そちらとの関係も気になるところです。赤狄に滅ぼされたケイ国の青銅器が内蒙古から出土してるので、中国内地の赤狄は草原地方と関係があったようです。

2017-05-03 11:23:16

周の元の同盟国(殷を滅ぼしたときの連合国)は、王号を称していた

巫俊(ふしゅん) @fushunia

立命館大学の谷秀樹さんの論文を読んで衝撃を受けたのは、周が殷と戦っていた頃、周の近隣の国々(陝西省周辺)は王号を称していて、周もそれを承認していたと思われるという指摘でした。つまり、真田が東方進出する中、本拠地の信州小県郡では、室賀氏などの国衆が併存していたのと同じような感じ。

2016-06-25 23:41:53
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@fushunia その国衆たちは、殷末の場合、それぞれ王を称していたということです。ちょっと戦国日本より規模が大きいですけどね。だから、西周王朝成立後も、それぞれの隣国は非公式に王号を維持しており、周には官僚として仕えつつ、自分の家の祭りでは亡き父を「王」と呼んでいたとか。

2016-06-25 23:45:10
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@fushunia 佐賀県の研究者の論文によると、鍋島氏の覇権が定着していた近世初期くらいの佐賀藩の中でも、本来の国主の家である千葉氏は、ひそかに「屋形」の号を使用していたようで、伊勢神宮の御師が出した千葉氏宛ての文章には「屋形」と書かれているとのことです。千葉氏は佐賀藩士です。

2016-06-25 23:49:22

西周は、「野戦」が目立つ時代
春秋は、「城郭」の防御力が目立ちはじめる時代

巫俊(ふしゅん) @fushunia

>RT 吉本道雅氏の新しい論文「周室東遷再考」の1章を読み終えたところですが、西周時代の出土史料では、「國」(国)は、「或」と書かれており、広域の軍事支配権のことを指す。それが春秋時代に、防御力を集約、城壁の中に縮小した「域」が実は「國」なのだとありましたが、ちょっと似てるような

2017-04-15 20:17:43
巫俊(ふしゅん) @fushunia

城壁都市自体は新石器時代からあり、殷周時代もその流れの中にある分けですが、春秋時代以前は「都市国家の時代」だというイメージに反して、西周王朝の防衛戦略は、侵入者を野戦で撃破する印象が強いので、まるで平安松・鎌倉時代の源平合戦みたいだと思いました。

2017-04-15 20:24:20

「楚」(戦国時代)の人口は、意外に少なかった!?

巫俊(ふしゅん) @fushunia

キングダムには「楚は秦の3倍、デカいのだ。民の数も多いということだ」と豪語する楚兵が出てきたことがありますが、戦国末の楚の領土は縮小している上に、人口密集地の都市が少なく、最近の論文の分析では、秦に領土を蚕食される前の楚でも、その人口と動員兵力は、魏とほぼ同じ程度に過ぎない、です

2017-05-25 20:41:16
巫俊(ふしゅん) @fushunia

その論文によると、自然が豊かな楚の地方では、野や湿原の中に逃げても食べるものがあるので、有事に際して民衆が容易に逃散・四散してしまう傾向があったそうです。その上、秦や斉・越などと国境を接しているので、兵力の分散配置に苦しみ、楚の西方軍が壊滅すると秦が荊州方面に雪崩れ込んできたとか

2017-05-25 22:27:21
巫俊(ふしゅん) @fushunia

今日、読んだ論文によると、秦代の県の守備兵は300人程度であることが普通だ推測されていて、前漢時代のゴビ砂漠の居延でも、それに近い数だったそうです。後漢末はどうか知りませんが、黄巾後の劉備の「安喜県尉」の規模が気になっていました。

2017-05-22 01:00:02
巫俊(ふしゅん) @fushunia

出土史料の竹簡が出土したり、新しい論文が出るたびに、宮城谷昌光が描いた小説のシーンが実は成り立たないことが分かり、興味深いのですが、この分野の研究成果は一般向けの本に恵まれていないので、何とも残念ですね。 twitter.com/fushunia/statu…

2017-04-15 20:53:21
巫俊(ふしゅん) @fushunia

吉本道雅「周室東遷再考」の2章をチラっと読むと、宮城谷昌光の小説の主人公として知られる「鄭の桓公(友)」が、西周の幽王を助けようとして戦死を遂げたあの場面は、『史記』執筆中の史料誤読に由来し、鄭の桓公は本当は死んでいなかったとあり、目を引きました。

2017-04-15 20:49:10
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@sanpiska822 出版状況が厳しいのだと思いますが、秦の始皇帝が生まれたときには既に拡大していた秦の版図が、毎年のように製作されてるはずのNHKの特番(の地図表現に)では、未だに反映されていないですし、世間一般への研究者の関与が限定的なのかもしれないです。

2017-04-15 23:37:24

「再結集する」旧六国が、項羽を悩ませた

巫俊(ふしゅん) @fushunia

楚漢戦争についての論文を読んでいると、旧六国などの各国は再結集を目指して、粘菌か何かのように動き続けており、何か、項羽がつくった実験室=天下がとんでもないことになっているという状況でした。 konan.ac.jp/library/kiyou/…

2017-03-28 23:45:25
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@fushunia 趙、斉、燕などが、項羽に分割された状態を解消して、自国の回復を目指しているのに、劉邦の漢だけが他国への侵略行動を目的に組み込んでおり、何か動きが違うという見方が面白いですね。何か、生物進化みたいな話。

2017-03-28 23:47:50
Чебурашка(類似品に注意) @tokoyo

@fushunia 趙、斉などの統治者がよるべき国の記憶を偽りででも持っていたのに、劉漢にじゃそれを持たなかったというのも、その差をもたらているようにも見えます。

2017-03-28 23:52:01
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@tokoyo 『史記』に収録されている年表の「漢楚之際月表」を見ると、「分関中為四国」(【索隱】漢、雍、 塞、翟。)とありまして、『史記』も実は関中を4分割したと見ているのですが、劉邦は秦の主になるだけでも納得せず、東に進むという話が、何かFF7のジェノバ生物みたいな感じです

2017-03-28 23:58:14
Чебурашка(類似品に注意) @tokoyo

@fushunia 国を生物と見るなら、漢は秦以降の当時としては"新種"、あるいは"変異種"にあたるのかもしれませんね。

2017-03-29 00:00:39

巫俊(ふしゅん) @fushunia

catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/14… ググってたら、こんな2014年の論文が出てきました。 「前漢期黄河古河道復元ー河南省北東部・滑県~濮陽市」

2017-04-30 00:08:27
巫俊(ふしゅん) @fushunia

imes.boj.or.jp/research/paper… 古代ギリシアと古代中国のGDPを計算した論文らしいです。まだ読んでないです

2017-05-21 11:11:56

三国