『宮本武蔵』の語られ方 吉川英治が創作した剣聖イメージを”格下げ”する歴史とは~我乱堂さんのツイートを中心に
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宮本武蔵が島原の乱に参加して、終わった直後に有馬直純公に呼び出された時「石を脛に当てられてで向けません」と断りの書状をだしているんだけど、それがいつの間にか「子供の投げた石ぶつけられた」という話になってしまったらしい。twitter.com/Angsaar/status…
2017-01-07 01:10:58何年か前に九州ツーリングで原城跡に行ったときのこと。島原の乱で宮本武蔵が子供の投げた石に当たって怪我をしたという話を、原城の現地ガイドに聞いた。何か出典があるのかと聞いたらそういう訳ではなく、なんかいつの間にか広まってた話らしい。何だそりゃ。
2017-01-07 00:18:25宮本武蔵の怪我が世に知られるようになったのは吉川英治が有馬直純宛書状を公開した後の事なので、ネット上で散見される「子供の石に当たった」「骨折した」などのディテールが加えられた話は昭和以降に発生した俗説ですね。 twitter.com/SagamiNoriaki/…
2017-01-07 01:27:14武蔵の怪我の話は余談でさらりと触れた程度だったけれども、それはともかくとして、原城のガイドさん(おそらく地元のボランティアの方々)達の島原の乱に関する話はたいへん興味深く聞かせて頂いた。
2017-01-07 14:30:56武蔵先生、いい年して島原では最前線にいたのだから、そら投石で負傷してても不思議ではない。とはいっても、「こっちこいや」という殿様の手紙に「投石で足をけがしてで向けません」という返事として書かれているので、実際に負傷していたのかは結構怪しい。
2017-03-02 12:08:36宮本武蔵の島原での怪我について傍証する史料がないか少し調べてみたが、中津藩の負傷記録は『島原記』(1640)『笠系大成付録』(1704)があった。どちらも武蔵の負傷記録は無し。魚住孝至氏によると中津藩の手負148名が掲載される史料があって、それにも武蔵の名は載っていないとか。
2017-03-02 18:51:33@Angsaar ちなみに『島原記』は国立図書館デジタルコレクションの史籍集覧の中にある。 dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid… 『笠系大成付録』は東京大学史料編纂所のDBの「所蔵史料目録データベース」(wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/)で書名を検索。
2017-03-02 19:01:14武蔵が有馬直純に呼ばれて出向かなかった理由については、怪我以外にも有馬家と水野家が島原の乱での軍功争いをしていたことにまきこまれたくなかったからかも…という話を播磨武蔵研究会さんがしてたね。両家に縁がある武蔵としては、どっちも味方したくなかったのかもしれない。
2017-03-02 21:49:59有馬直純は立場上戦功を立てるのに必死だった。福田正秀氏によると有馬家は論功で細川・黒田とも争ったとか。細川家の筆頭家老とは昵懇の間柄だし、黒田家には無二の頃から縁がある。これが事実なら有馬家は武蔵と縁のある大名家とばかり争っているわけで、正直近寄りたくなかった事でしょう(笑) twitter.com/SagamiNoriaki/…
2017-03-02 22:27:46@Angsaar @SagamiNoriaki 70年代にかかれた「武蔵投石で負傷の図」(風雲児たち)。 これは資料も古かっただろうけど、「剣豪が素人の技や日常の所作の中で怪我したら面白いよな!」というアンチヒーロー的な期待/…と共に「子供や無知なド素人の何気ない〇〇〇こそが、実は深いのだゾ」という禅的な思想もあるのかも。 pic.twitter.com/9P1ZYIogAi
2017-10-25 02:09:58@gryphonjapan @Angsaar 資料が古いってのは確かなんですが、この頃も冷静に考えたら伊織が小笠原家に仕えてている状況で、武蔵が仕官を求める理由なんかないはずなんですよね…家督を継いだ養子が出仕しているとってことは、武蔵は引退して隠居しているわけで…当時で五十ですよ。いくらなんでも仕官求めているはずないです…
2017-10-25 02:17:31武蔵が投石で怪我したというのは有名な話なんだけども、仕官に焦っていたとか、こういう描き方は司馬遼太郎『真説宮本武蔵』以来だなあ…直木三十五はこれについて言及しなかったけど、直木の死後に有名になったので、そりゃ当然だなあtwitter.com/gryphonjapan/s…
2017-10-25 02:25:52