ゲームとは何かについて考えた「Game tsu meet」一回目の アフタートークまとめ

「罪神」制作スタッフの「Game tsu meet(げーむつみーと)」の第一回(http://togetter.com/li/13739)のアフタートークっぽいものを、上野さんと西田さんがはじめてたので、sericoがまとめました。 第二回つみーとをとぅぎゃりました:http://togetter.com/li/16657 罪神 公式サイト 続きを読む
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@tsumigami

.@tmgm_nishida 届いた「刺激」を、受け手が「主観」のなかでどう受け止めるか、は小説や映画など他のメディアと同じ。

2010-04-12 02:29:10
@tsumigami

.@tmgm_nishida ゲームは、受け手に「選択(意思決定)」を要求する。で、その選択の結果によって「届ける刺激の内容」を変えるように設計されている。この点が、【体験のカタチ】(意味とか、手触りとか)に違いを生んでいると思う。(成)

2010-04-12 02:37:24
@tsumigami

物事の切り取り方にはいろいろあるのだなぁ…と昨日を思い出して。視点(学問的見地)が変わると、ゲームが違ってみえてくる。愉しい。(成)

2010-04-12 11:52:19
@tmgm_nishida

僕らはゲームをどういうふうに使うか?という議論を、とりあえずの指標としていくわけだけれど、単純な定義へと収束させるのではなくて、むしろ、できるかぎり、どんどん複雑にしていきたいと思っている。どれだけの複雑さにゲームが耐久できるか、というようなふうに進めたら面白いな、と。

2010-04-12 18:26:35
@tmgm_nishida

「受け手に「選択(意思決定)」を要求する。で、その選択の結果によって「届ける刺激の内容」を変えるように設計されている」のがゲームであるとするなら、なぜそれは「ゲーム」でなければならないのか?

2010-04-12 18:34:21
@tmgm_nishida

設計の「外」が「世界(または現実)」なのか? ゲームをつくることとは、「設計(=ゲーム)」することで、「世界」を変容させることを目論んでいるのか?

2010-04-12 18:36:53
@tsumigami

.@tmgm_nishida どれだけの複雑さにゲームが耐久できるか>いいねー!やるぜやるぜ、燃えてきた!(成)

2010-04-12 22:49:56
@tsumigami

と、その前に、ひとつ。ここから先は、一般的な「ゲームの定義」から離脱して、「上野のゲーム論」に突入します(たぶんw)

2010-04-12 23:01:48
@tsumigami

ゲームという文化は「アミューズメント」、そして「エンターテインメント」の中で生まれてきた分野だけど、ぼくは「それ以外の存在」に押し広げたい、と考えてる。それが、たとえば「アート(芸術表現)」。

2010-04-12 23:05:55
@tmgm_hattori

ゲームは、世界を切り取ったスケッチですからイコールではないです。RT @tmgm_nishida: 世界とゲームは単純な等号で結ばれるのではないのだというのなら、そこをクリアにしないと。

2010-04-13 00:04:54
@tmgm_hattori

すみません、違いました。思考を立ち止まらせず、常に歩ませる力です。>微分 どう、プレイヤーを手伝うか。 RT @tmgm_nishida: 問い、は、数学の問題です。微分は、数学の問題を解いていく過程そのものです」、と。

2010-04-13 00:10:40
@tmgm_hattori

読み進めるのは、おそらく「プレイ」ですね。RT @tmgm_nishida: ひとつの小説が「問い」であり、そのテキストを読み進めるのが「微分」に当たる、という理解でいいよね?

2010-04-13 00:11:45
@tmgm_hattori

レゴは、とても難しい素材です。ゲームを考えるときに。RT @tmgm_serico: 昨晩のつみーとでレゴ…というのはすごくわかりやすい例えだ!と思ったけどあんまり通じてなかったっぽく…^^あるある

2010-04-13 00:14:08
@tmgm_hattori

例えば、他に何である、と言えますか。刺激が物理的に変わるものって。RT @tmgm_nishida: なぜそれは「ゲーム」でなければならないのか?

2010-04-13 00:19:48
@tmgm_hattori

外が世界かは不明ですが、その人の世界認識を変えることを目論んでいます。RT @tmgm_nishida: 設計の「外」が「世界(または現実)」なのか? ゲームをつくることとは、「設計(=ゲーム)」することで、「世界」を変容させることを目論んでいるのか?

2010-04-13 00:21:55
@tmgm_hattori

ある問題を考えようとする生徒がいる。「ここからは、3種類の考え方があり得るな。どれで行く?」とゲームが言う。この「3種類の提示」が微分です。あえて制限する事で問題の見通しを良くする。選んだ結果も具体的に目の前に見せて、考えを進める助けにする。

2010-04-13 00:35:30
@tmgm_hattori

プレイヤーはゲームを使って考えを形にしていく。論文を書くようなものです。仮説を立て、実証し、結果をまとめる。それを足場にまた仮説を立てる。ゲームには、実験する仕組みと、結果を記録する仕組みがセットで入っています。論文を書かなくても自分の考えが確認できる。

2010-04-13 00:39:46
@tmgm_nishida

世のなかの現実を生きているとき、僕らは必ず何らかの選択を行う(要求されて、でも良い。自発か、要請や強制であるかは取りあえず問わない)。その選択の結果、「届ける刺激の内容」は変わる。これはたいていの、世のなかを生きていることに当てはまってしまう。

2010-04-13 00:46:21
@tmgm_nishida

例えば、昼飯に、会社の地下で饂飩を喰うか、斜め前の蕎麦屋でざる蕎麦を喰うか通りの向こうのコンビニでおにぎりを喰うか、それとも弁当を喰うか、それは「選択」と、「刺激が物理的に変わる」ことの例になり得る。

2010-04-13 00:47:57
@tmgm_nishida

だから、世のなかの総てはゲームなのだ、と云ってしまうことはできる。そして、それを肯定してしまっても、私はいっこうに構わないと思う。ただ、しかし、それでは現実がこのようにしてあるなかで、どうしてわざわざゲームをつくらなければならないのか?という問いが、依然として私には残り続ける。

2010-04-13 00:51:39
@tmgm_nishida

ゲームとは、現実の縮減であると考えてみる。現実を、或るひとつのフレームで切り取った(世界のスケッチ)ものであると考えてみる。現実の縮減とは、現実の複雑さのなかから、幾つかの要素を抽出して、アクセスできるようにした、ぐらいの意味であるとしていい。

2010-04-13 00:55:56
@tmgm_nishida

そもそも僕らは世界そのものにはアクセスすることができない。いまじぶんのまわりを見渡してみるとする。そして、名前がついていないものをみつけることは、たぶんできない。僕らは世界を言葉というフレームで切り取ることでしか、世界にアクセスすることができない。

2010-04-13 00:57:42
@tmgm_nishida

つまり、世界とは僕らの言葉の反映なのである、というふうに表現することも可能だ。

2010-04-13 00:58:38
@tmgm_nishida

さて、服部君(@tmgm_hattori)のゲーム観には、「教える」という視点が含まれているように思える。教育的である、と言い換えてもいいだろう。

2010-04-13 01:02:10
@tmgm_nishida

と、ずらずら説明的に行こうと思ったが、ちょっとそれはおいといて(笑)。やっぱり、じぶんで書かなきゃ判らないと思う。じぶんの考えのいちばん核にあるものをつかむためには、または、じぶんの考えなんてものが如何に曖昧で、幾らでも変化するものだということを判るには。

2010-04-13 01:06:38
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