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ついでに、姫路の時刻表も。 photozou.jp/photo/show/475… 新快速が激増して急行が消えた以外は、今と似たようなもんかも(苦笑)。
2011-10-23 13:07:15おぉ!S61.11改正のパンフレットですかね? RT @yukai3chome: 25年前のチラシ。 http://t.co/aTCiP1Ax
2011-10-22 09:57:55@kotonoha_s ありがとうございます。このそもそもの高頻度ダイヤは、国鉄・私鉄のどちらが先なのでしょう。それも気になります。
2011-10-21 10:28:37@Azusayumi_ @kotonoha_s 私鉄が先ですね。ですからたとえば、静鉄と国鉄に競合関係は強くは存在し得なかったんです。まぁ清水-静岡という点間はありますが、本数が多くて便利な静鉄、遠距離向けの国鉄という遠近分離(都市内都市間分離)ができていたということですね
2011-10-21 10:31:44@Azusayumi_ 私鉄は、大抵の路線は開業時から高頻度運行ですね。貨物列車や長距離列車という制約もなく(貨物列車のある私鉄もあったが低頻度)、長距離列車主体の国鉄とは全く違う存在でした。
2011-10-21 10:37:03@kotonoha_s @Azusayumi_ いわゆる「電車」と「列車・汽車」ですよね。分割民営化直前の昭和60年頃でもまだまだ長距離を走る普通列車が多数存在し、途中駅での長時間停車なども珍しくは無かったのですからね。途中駅での1時間停車とか。
2011-10-21 10:41:16@Tomominori_T @Azusayumi_ 小荷物輸送(今で言う宅配便程度の大きさを対象とした荷物)を旅客列車でやってたりしましたから、その積み卸しや他列車との積み替え等もありましたからね~@長時間停車
2011-10-21 10:47:23@Tomominori_T @kotonoha_s ありがとうございます。そうですよね、国鉄は遠距離輸送が目的ですもんね。恥ずかしい質問をしてしまいました(情けない…)。
2011-10-21 10:33:40@Azusayumi_ @Tomominori_T 今とは状況が全く異なりますからね(笑)。広島の試行も、新幹線開業や貨物の衰退で列車設定の自由度が高まったから出来たもので、他都市圏も同様ですね。しかし静岡の2両編成10分等間隔化は、衝撃的でした@当時
2011-10-21 10:41:31国鉄の地方都市圏増発、先陣の広島地区は1982年に実施(日中15分等時隔化)で、これの成績を踏まえて84年改正で札幌・静岡・岡山・北部九州都市圏でも高頻度化が実施され、85年改正では仙台・長野・金沢・富山都市圏でも実施された、という流れのようですな。
2011-10-21 12:15:42@kotonoha_s 85年時点では都市圏導入だけではなく、目立たないだけで加古川線・八高線・播但線などの近郊ローカルでも国電型ダイヤが導入されているんですよね。で、全く導入されなかったのが四国4県。高松はJR化後の88年に導入されてますが。
2011-10-21 12:33:44@kotonoha_s @Azusayumi_ 「広島シティ電車」「するがシャトル」などなどですね。昭和60年頃は一部の路線で定期列車の合間に「α列車」というのがあり、「利用者の動向をみて定期化するための実験的増発列車」というのがあったんですね。今で言う社会実験のハシリですね
2011-10-21 10:46:14@Tomominori_T @Azusayumi_ 長野は「エコー電車」で、北部九州が「タウンシャトル」でしたね。「くる来る電車ポプラ号」は札幌でしたっけね…。仙台のも、なんか愛称ありましたよね。
2011-10-21 10:50:17@kotonoha_s @Tomominori_T @Azusayumi_ 今でもその名残があるのは塩尻⇔辰野の「ミニエコー」くらいでしょうかね
2011-10-21 10:54:41@high_island_exp @kotonoha_s @Azusayumi_ ミニエコーはまさに名残ですよね。ちょうど国電ダイヤを長野・松本で導入する直前に塩嶺トンネルができて枝線化したわけですし。
2011-10-21 11:03:54@Tomominori_T @high_island_exp @Azusayumi_ 115系3連ベースの「エコー電車」に対して、単行ベースの短距離列車として「ミニ」エコーでしたよね。同じ県内でも、信越線はエコー電車だったけど大糸線は元から多頻度だったからか愛称なしでしたよね。
2011-10-21 11:08:37@Azusayumi_ @kotonoha_s 私は日本のモータリゼーションの急速な進展のターニングポイントはここにあったと思ってます。都市間交通に都市内を担わせた際に二次交通整備ができなかったのが全てだろうと。ここで手を打っておけば全然違ったのでしょうね
2011-10-21 10:34:07@Azusayumi_ @kotonoha_s 長野は判りやすいと思います。国鉄が旧街道スジと離れていないですし、市街地の郊外展開が鈍いですから。近年でも今井駅開業で国道篠ノ井線が減便とか判りやすい現象も現れてますし。
2011-10-21 10:37:29国鉄の分割民営化前後の経営改善や改善施策実施時に、もう少し都市サイドと交通サイドが連携できていれば、中心市街地問題も地方のモータリゼーションも公共交通の維持問題も違った展開になっていたんだと思う。今、比較的中心市街地が元気な都市は偶然かもしれないけど対応ができた都市じゃないかと…
2011-10-21 10:58:38@kotonoha_s @Tomominori_T ありがとうございます。なるほど、手荷物や貨物によるダイヤの制限が緩くなったという背景ですか。α列車は初めて知りました。国電化の時に二次交通の整備ができていたら…というのは本当にそう思います。
2011-10-21 11:00:13当然、鉄道やバスだけの話ではなくて店舗の魅力や郊外店舗などとの絡みはあるのだけど、あのときに多くの都市で「"中央"駅周辺<中心商店街」という構図が崩れたわけだから「立地条件」が変わったんだよね。都市内交通があるor駅と中心部が近い町と、それがない都市では見事に差が出てる気がするし
2011-10-21 11:02:25昭和50~60年代までは中心市街地では商店街にあるデパートやSCなどに併設されたバスターミナルや駅・駐車場(モータープール)から自宅へ帰っていたのだけど、国鉄の利便性向上によるバスの衰退、自動車の普及により中心部ではなく郊外や駅前が拠点になったというのは重要な要素だと思う。
2011-10-21 11:11:18