近代的自我と共同主観性

近代的自我と共同主観性
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Aa @Aa_stealth

@ishtarist 非常にナイーブな議論をされているのですね。興味深かったです。社会学は複数アプローチを用いるのが常なので(事例と理論の並立とか当たり前です)、話をとっちらかせたとしたら、申し訳なかったです。とても勉強になりました。ありがとうございます。

2012-03-06 05:02:39
馬の眼🐴 @ishtarist

@Aa_stealth いえ、もちろん、事例が重要なことは確かでしょうね。というか、それが一番大切ですから。まあ、社会問題として言えば、三島が適切な例だったかと言えば、かなり怪しいと思いますし、抑圧者・被抑圧者というのも、あくまで議論の便宜上言っているだけです。

2012-03-06 05:08:46
Aa @Aa_stealth

三島が「極めて日本的」な近代的自我と社会共同体の狭間で揺れた人間であることを主張できなかったのだけは、残念である。乃木大将とかのほうがよかったのかのう。「近代的自我」って日本におけるものと、他国(欧米)におけるものとは違うという前提が。ぶつぶつ。

2012-03-06 05:14:23
馬の眼🐴 @ishtarist

近代的自我という怪しげな概念は、おそらくは自意識のこと。「人格を尊重せよ」という場合の人格は、(超越論的)主観性のこと。前者が概念として仮に近代の産物であったとしても、後者はあらゆる社会の大前提であるため、普遍的である。それゆえ、後者に基づいてあらゆる社会は批判可能である。

2012-03-06 05:15:21
馬の眼🐴 @ishtarist

どうにも、「近代的自我」を批判する人の多くは、どうにも性急に、後者の超越論的主観性をも洗い流してしまうようだ。というか、たぶん、その<存在>に気づいていないんだろう。

2012-03-06 05:16:22
馬の眼🐴 @ishtarist

まあ、両者の関係について言えば、超越論的主観性の<存在>に気づくことで、はじめて他者の言説の圧力に抗して自律的に判断できる、という側面は確かにある。

2012-03-06 05:18:01
馬の眼🐴 @ishtarist

文化を主体にして論じるのは、やはり相当に危険だ。

2012-03-06 05:22:50
Aa @Aa_stealth

@ishtarist 近代以前は人は社会階層などに疑問を持つことなく、自由がなかった。それに対して選択権の与えられた近代において、自由の中で何を選ぶかという主体性が必要になり、生まれた概念が「近代的自我(欧米)」。

2012-03-06 05:22:19
Aa @Aa_stealth

@ishtarist ただ日本では、そもそも歴史的経緯から、自由を自ら手に入れたという実感が薄く、結果残ったのが「近代的自我を持たなければならないと思いつつ、共同体幻想に支配されている未熟な自我」←これが日本的な近代的自我。←で、批判される。という理解でございます。

2012-03-06 05:24:47
Aa @Aa_stealth

この際なので解説しておくと、私は三島由紀夫の死を、「社会は己に同調してくれる」と思っていた、社会共同体への甘えと同時に、未熟な日本的近代自我(エゴ)をむき出しにした、確かにナルシスティックでロマンチストな死であったと思っている。「空気を読み違えた道化の死」でもよい。……殴るの禁止

2012-03-06 05:36:24