社会学または社会理論に於ける限界についての一考察 : 岡田直樹氏(@ishtarist )のツイートより
- totojuni_s
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今から話すことは、特定の誰かをdisるためのものじゃなくて、現在の社会学あるいは社会理論の限界を明確にするための、一つの思考の練習問題だと考えて下さい。
2011-01-08 23:17:31さっき、TLで、おそらくフェミニストの誰かが、「私たちは主婦を選択した個人を批判しているのではなくて、社会構造や歴史的文脈を批判しているだけだ」と言っていました。この批判という言葉で何を意味しているかですが、さしあたり思考の限界確定ではなく個人に対する批判と同じととっておきます。
2011-01-08 23:21:57ともあれ、その前提において、個人を免責した上で、「社会構造」を「批判」するということが、僕にはどういうことなのかよく理解できません。普通に考えると、個人に責任がないものについては、「批判」することに意味はないからです。
2011-01-08 23:25:04例えば、ペストが流行って何百万人もの人が死んだとします。その場合、私たちが「ペスト菌を批判する」、あるいは「ペストが蔓延している状況を批判する」というのは、実に無意味なことのように思います。私たちができるのは、ペストに対してどのように予防し、防疫し、治療するのかだけです。
2011-01-08 23:26:37もちろん、その過程で、ペストの蔓延を予防するために、どのように対処していくのがを議論する必要があるでしょうし、また政府の対処法の不適切さなどを批判することも意味があることでしょう。
2011-01-08 23:28:38でも、批判に意味があるのは、それが人為によって変更可能なものであるからであって、そうでない要素、たとえばペスト菌の存在自体を、批判することはあまり意味があることだとは思いません。
2011-01-08 23:30:06それと同様に、たとえばある状況を生み出している社会構造を批判することに意味があるなら、その時、社会構造は、意図的であろうとなかろうと、多少なりとも人為的な、あるいは人為によって変更可能な要素である必要があります。社会構造がそういうものでなければ、分析は可能でも批判は意味がない。
2011-01-08 23:31:19つまり、個人から社会構造を遊離させて、個人には責任がないけど、社会構造に責任がある、という論理によって社会構造を批判することは、僕の目には極めて無意味な営みのように思える。批判して変わるならば良いのですが。
2011-01-08 23:33:38一つの範例として、「社会構造を批判する」という言明を挙げましたが、このロジックは、一流の社会理論家でも、普通に見られる訳です。具体的に言えば、今読んでる江原由美子やガヤトリ・スピヴァック、ジュディス・バトラーなんかも、この論理を割と無批判的に使用している。
2011-01-08 23:35:35ともあれ、問題は、ある意味では理論的なものです。すなわち、「社会構造」の存在論的ステータスが曖昧で、それゆえ私たちの生と社会構造との関係がいかなるものであるかに関して、いまだ社会学理論は、充分な答えを用意していないことに、まず問題がある。
2011-01-08 23:40:12つまり、私たちが、どのようにして自分の生活の中で社会構造を創り出し、またその社会構造によって自分たちが生まれたり規定されたり束縛されたりしているのか、そこを私たちは未だに明らかにできていない。だから、いかにして社会構造を変えるのか、についても、私たちは理論的によくわかっていない。
2011-01-08 23:42:20そこがよくわからないまま、「個人は社会構造に規定されている」とか「現実は社会的に構築されている」とか、「個人ではなく、社会構造に責任がある」とかいう言葉だけが生産されている。そこで、「社会構造を批判する」とか「コードに批判的に介入する」とか、そういう言い方も出てくるわけですが、
2011-01-08 23:46:24で、どうも、そうやってどこにあるかわからない、共同主観的なコードや規範に「批判的に介入」とかって言って、本人たちは何かすごく意味があることをしてるように思ってるように思えるんだけど、それって、第三者から見ると、自分の幻想の中であがいてるようにしか見えない。
2011-01-08 23:48:15ともあれ、社会構造なるものが何らかの意味において存在するとして、それを(人格と同じように)「批判」するのではなくて、それが私たち一人一人の生と、実践的に、具体的に、どのように関わり合い、そして変革しうるのか、そこをまず解きほぐさないとどうしようもない、と僕は強く思う訳です。
2011-01-08 23:51:00もう一つ言えば、今の社会学の枠組みでは、この問題(ミクローマクロリンク)は、そもそも解けないように立論されている。と僕は思いますが、面倒なのでこの話はこれ以上しませんw
2011-01-08 23:52:05ちょっと話は飛ぶけど、昔、9.11から2-3年後ぐらいだったかな、パレスチナの紛争(というかイスラエルによるパレスチナの侵略行為)が激化していたときに、一時期僕は、「Suicide Bomberは語ることができるか」という論文を書こうと思ったことがありました。
2011-01-08 23:54:46もちろん、このタイトル「Suicide Bomberは語ることができるか」は、スピヴァックの高名な論文「サバルタンは語ることができるか」を念頭においたものです。日本語では「自爆テロリスト」と(不適切にも)翻訳されている彼らは、ある意味において、究極のサバルタンなのではないかと。
2011-01-08 23:56:31僕がその時、非常に懸念していたのは、9.11以後の「対テロ戦争」という文脈において、彼らSuicide Bomberが同様にテロリストとして(日本では)ラベリングされ、かつほとんどの識者が、パレスチナに言及するときに、「テロはよくないけど」と前置きをする状況を僕は懸念していた。
2011-01-08 23:59:50もちろん、僕は彼らSuicide Bomberの行為を正当化したかった訳じゃない。ただ、彼らの行為が、いつもイスラム教とかテロとか報復という文脈に回収されて理解されていた。そして、彼らの行為が、単なる殺人だけではなく、自分の身を炸裂させるという究極の行いであるということ、
2011-01-09 00:04:29そこにどれだけの絶望と哀しみがこめられているのか、それを「テロはよくない」という言葉で、誰もまともに聞き取ろうとしなかった、そのことがとても悲しかった。
2011-01-09 00:05:49もちろん、日本にいる僕には、身を炸裂させるということが彼らの魂にとってどういうことなのか、うまく想像することができない。もしかしたら、僕の読み込みすぎなのかもしれない。だけど、ただの報復行為なら、相手を単に殺すだけでいい、ということぐらいは想像がつきます。
2011-01-09 00:08:09「テロはよくない」と安易に日本の知識人たちは批判するけれど、彼らには、それ以外にどのような方法があるというのか、それを想像したことがあるのだろうか、という問題です。民主的な係争手段はなく、パレスチナ政府の母体のファタハはイスラエルの傀儡になりさがっていた。
2011-01-09 00:13:29そして、イスラエル軍や植民者による日常的な攻撃や破壊についてはほとんど報道されずに、それに対する報復行為だけが、世界の報道で取り上げられていた。こういう状況と戦う為に、彼らは世界に自分たちの苦しみを訴えるしかなく、そしてその唯一の手段は、イスラエル人を殺すことだけだった。
2011-01-09 00:16:51