社会学または社会理論に於ける限界についての一考察 : 岡田直樹氏(@ishtarist )のツイートより
- totojuni_s
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社会学者が「社会構造」と呼んでいるものの大部分、それは彼自身の認知構造それ自体である。その独我論的な認知構造を、彼らは誤って「社会」と呼び、自分の行為や主観性から断絶させて、超越的な実体にしたて上げているだけだ。その後で、行為や主観性と、かかる超越的実体の連関を謎として考察する。
2011-01-09 02:32:47これが、社会学理論におけるミクローマクロリンク問題の本質であり、また方法論的集合主義と、方法論的個人主義の構造的循環の正体である。
2011-01-09 02:33:36わかりやすい比喩で説明しよう。ある神学者は次のように考えるかもしれない。「神は私たちを創造した。しかるに、その私たちの神への祈りにおいて、神は私たちに顕現する。じゃあ、神が私たちを創造し、私たちが神を創造する、その循環はどのようにして可能なのか」と。
2011-01-09 02:35:59僕は、こういう議論をした神学者がいるかどうかしらない。これは僕の捏造だ。しかるに、社会学者がやっていることは、まったくもってそういうことなのだ。
2011-01-09 02:37:01少なくとも理論的テクストを丹念におえば、こうした認知構造の超越的実体化を、私たちは社会学理論の至る所に見いだす事ができる。僕が確認した限りにおいて、ギデンズしかり、るーまんしかり、デュルケムしかり、バーガー&ルックマンしかり。
2011-01-09 02:39:05これは、たとえば鏡像的認識論の問題とまったく構造的に同型である。認識の外部の実体を正しく、認識する私たちの認知メカニズムはどのようなものか、という問いである。だがそのように問う時、私たちはすでに、現前したものを、認識の外部の実体であると誤って措定してしまっているのだ!
2011-01-09 02:43:46この誤謬に対して、カントはコペルニクス的転回をおこなった。つまり、私たちにとって現象とは、認知された現象でしかありえず、その限りにおいて、認知構造と現象が構造的に一致するのは当然なのだ、と。つまり、認知から独立した、認知に似た実在を否定したのである。
2011-01-09 02:46:09例えば、社会学理論において、なぜ意味や規範や文法が「マクロな社会構造」と同一視されるのか。それはそもそも、人間の認知構造に内在しているものであることは認めざるを得ないのに、なぜそれがミクロとマクロに二重に配分されるのか。
2011-01-09 02:50:45具体的に言えば、言語の文法を、外部の、共同主観的な実体(あるいはデュルケムがいうところの社会的事実)であるとみなしておいて、それがいかにして個人に内在化され、かつ個人は発話行為において、文法という実体を生み出すのか、と社会学者は問うている。
2011-01-09 02:53:40僕の答えは、「いや、そもそも言語文法を、個人から離れた、共同主観的な実体であると考えたこと自体が、自分の硬直化した認知構造の効果でしかないんだ」と。そしたら、不可能な、ミクローマクロリンクの問題なんか、そもそも考える必要がなくなる。
2011-01-09 02:55:11そうじゃなくて、自らの認知構造を社会と同一視する無批判性によって、社会学者は、社会の存在に気づくことができないんだ、という議論をしていきたい訳であります。
2011-01-09 02:56:41