石川卓磨・宮下さゆり「似て非なるもの」展 公開対話ツイート
〈021:石川卓磨より〉今は昔ほど映画を相手にはしていないのですが。あと一つ補足。僕は作品を作りたくて作ることと美術を学ぶことは並行的で、ただ美術史のお勉強ということで作品を作っているわけではない。写真のメタジャンル性を説明するわかりやすい例として書きました。
2012-04-17 22:19:09〈022:石川卓磨より〉宮下さんの話に戻します。宮下さんが自分の作品をドローイングと見なしているのは率直に意外でした。それは油絵具と鉛筆など素材が持っているヒエラルキーではなく、自分の作品を作品として作り上げることよりも思考を留めるコンセプチュアルな意味合いが強いのでしょうか。
2012-04-17 22:23:35〈023:石川卓磨より〉どのような意味でドローイングと呼ぶのか少し興味があります。また、宮下さんの作品には確かに絵を描くことについての絵とも呼べる自己言及的な構造が強く現れていることがわかります。そして、影を描くという行為も、絵画の起源に位置づけられるものでもありますね。
2012-04-17 22:32:48〈024:石川卓磨より〉しかし、今の言い方は、絵画の原理的なものや歴史的な起源に持ち込む、通り一遍の言い方かもしれません。宮下さんが考える作品との距離感をもう少し教えていただけけたらと思います。これ、ちょっとトークの本題に入りすぎでしたら脱線、迂回してください(笑)
2012-04-17 22:36:02<025:宮下さゆりより>石川さんご指摘ありがとうございます。前回の返信でメタ性についてうまく言葉にできていなかったので補足しようと思います。ドローイングという言葉を使ったのは、素材が絵の具ではないというだけであって習作や付属物ではなく作品として作っていることに変わりありません。
2012-04-19 01:20:18<026:宮下さゆりより>私の作品のメタ性とは絵画の形式についての絵画ではなく、メタ絵画性といってしまうと語弊が生まれます。テーブルというスクリーンにイメージ(手影絵)が投影されている光景を描くという反復、絵自体がアリバイのように自らの存在のあり方を言明している自己言及性。
2012-04-19 01:26:16<027:宮下さゆりより>それは石川さんが話されている写真のメタジャンル性とは対極の、画面内部で閉じたまさに自己言及性といってしまえるものかもしれません。しかしその自閉、フレーム内で閉ざされた手影絵というつくられたイメージは観客が知り得ない謎を生み出します。その得体の知れなさが
2012-04-19 01:30:56<028:宮下さゆりより>私を誘惑し続ける要因であり、私はイメージとはそういうものではないかと思っているのです。幽霊のような、見えているのに見えないもの、在って無いもの、いかがわしいもの。まだ言葉足らずですが、28日のギャラリートークでもっと詳しくお話しできたらと思っています。
2012-04-19 01:35:44<029:宮下さゆりより>さて石川さんの作品の映画館と展示空間のお話は興味深いです。展示空間の場合は、観客が各々能動的に作品を再生しなくてはならないのですね。高島屋の展示の方がそれが強く出ていたと思いますが、タリオンの作品もタイトルを合わせて見ると再生、されるように思います。
2012-04-19 01:41:36<030:宮下さゆりより>その場合作品そのもの、はどこにあるのでしょうか。ひとつにはそれは写真自体なのか展示を見る経験を含めるのか。もうひとつには理屈の上だけで考えると、作品は観客の中にしかないということになりますが、そうすると展示ごとの作品の差異はなくなってしまうのではないか。
2012-04-19 02:21:05<031:宮下さゆりより>でも、私はそうではないと思うんです。高島屋とタリオンでは展示されている写真の差異によって、観客の読みも変わらざるを得ないわけですし。うまく説明できていないかもしれませんが、作品というフレームがどこで決まるのかということをお聞きしたいです。
2012-04-19 02:44:44<032:石川卓磨より>作品というフレームをどこで決めるのか。それをパラドキシカルに、あるいは複数的に、僕自身はそうあろうとしています。例えばアプロプリエーションの手法を中心にした作家たちは構造を前景化させるために自らの作品と同定できる制度(スタイリッシュ)を固定化してしまった。
2012-04-19 23:00:03<033:石川卓磨より>モダニズム批判として現れたポストモダンの写真も今や立派な作品化の制度となってしまった。僕はそこからどう展開するかを考えています。僕の写真は複数で成立するのか単独で成立するのかという問題も両義的なものとして、あるいは一方が他方の成立条件になると考えています。
2012-04-19 23:02:26<034:石川卓磨より>率直に僕の作品を観客が自由に読み解けるものにはなっていない。写真は閉じている。これが読解を誘因する前提条件。額装はなぜマットをつけ、切り閉じる効果を持つ黒フレームを採用したのか。空間的な連続性を持たすならフレームは不要か、少なくともマットを省くでしょう。
2012-04-19 23:08:09〈035:石川卓磨より〉そして作品と鑑賞者の中の作品は、イコールにはならない。これに関して僕の一貫した関心は事件と証言です。事件はどこに存在するのか。出来事か発覚か。レトリカルな問題としてはシュレーディンガーの猫における箱の中の猫(の生死)と観測者の関係とも結びつくとも思います。
2012-04-19 23:13:13〈036:石川卓磨より〉どうしても粗い説明になりますが、僕の話はとりあえず終わり。ドローイングという言葉の使用について理解しました。今や素材は多様化し、それによるヒエラルキーは基本的にはないと思う。絵画のサブジャンル性であればそれも重要ですが、宮下さんはその枠組みでもないですね。
2012-04-19 23:21:04〈037:石川卓磨より〉メタ性についてもありがとうございました。面白い話です。前提がなんであるかよくわかりました。確かに宮下さんが描かれる空間は、構造的であり同時に誘惑的でもありますね。それは鉛筆によって丹念描き出された空間であることともに、謎めいた感覚が得られるからでしょう。
2012-04-19 23:22:46〈038:石川卓磨より〉それは構造がナラティブなものと関わっているからでしょう。影の存在感は、同時に不在感(欠如)である。自律しえないはず影が、身体から切り離され他者となって現れる様。窃視的感覚が、フレームの外の身体と空間的に結びつけられることでより官能的になる。
2012-04-19 23:30:03〈039:石川卓磨より〉フィクションが現れるのは、絵の中なのか、影によって示されるフレームの外なのか。また、影とは視覚的なものですが、テーブル=スクリーンに投影されることで触覚性を意識させます。これは手の影であることとも無関係ではないでしょう。作者、作品、鑑賞者のトライアングル。
2012-04-19 23:34:29〈040:石川卓磨より〉ここら辺は宮下さんが言われていたように東京国立近代美術館「ぬぐ絵画」問題(笑)とも繋がるところですね。ここら辺もトークでお話しできるのを楽しみにしています。長くなりましたがこれで閉じます。
2012-04-19 23:37:44<041:宮下さゆりより>作品と観客との関係について、事件と証言という例えはなるほどと思いました。証言から事件の輪郭など、ひとつに決定できませんね。それから写真は閉じている、というと石川さんが今回展示している扉の写真を思い出しました。
2012-04-20 18:47:23<042:宮下さゆりより>閉じられたドアの写真は、その向こう側があることを示しながらも決して開くことはない。対して私の作品はレトリカルに言えば窓です。窓は開かれて向こう側が見えますが、ドアと同じく宙吊りの感覚、向こう側との断絶ゆえの誘因が面白いと思っています。
2012-04-20 19:00:09<043:宮下さゆりより>私が「ぬぐ絵画」展で黒田清輝の「野辺」と熊谷守一の「夜」が特に興味深いと思ったのは、描かれた身体と見る身体、または観客の窃視的感覚が描かれた身体に影響を及ぼすというフレームの外と内との関係でした。フレームの外側の身体は、作家と観客でもまた異なります。
2012-04-20 19:07:29<044:宮下さゆりより>フレームの外から見るという一方的な立ち位置をぐらつかせることは、日頃から考えていることです。28日は蔵屋さんも交えて、作品の中である対象を扱うことについてもお話しできたらと思います。さて、唐突で恐縮なのですが、石川さんとの公開対話はここで締めます。続きが
2012-04-20 19:20:56<045:宮下さゆりより>気になる方はぜひ28日ギャラリーにお越し下さい。ここでの石川さんとの対話によって多くの言葉が紡げたことは、当日に向けての糧となりました。そして対話を読んで下さった皆様、ありがとうございました。
2012-04-20 19:33:18