國分功一郎『スピノザの方法』のインパクトとは

國分功一郎『スピノザの方法』(2012.2 みすず書房)は、神思うデカルトという近代的自我の諸問題を相対化し、我が思う対象を証明したスピノザを取り出す。そのインパクトは計り知れない。
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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

スピノザを國分流に「実体の放棄」と捉えた上で、フッサールの省察を読み進めると結構楽しめる。フッサールはデカルトが、疑いの余地のない前提として、超越論ではなく超越的(二元論的な)我思うを置いたというのだが、スピノザが相対化したように、それは思っている我=実体という等式のことだ。

2012-06-13 17:54:51
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

たとえばデカルトの空の例や太陽の例に対してスピノザがどうしたとか、そう読むといい。でも太陽の例に対してスピノザは幾何学というのだが、それも最後に裏切られて、幾何学定理を片付けて(実体の証明手続きの破棄)次に進むのがエチカだ、とかなるのだけど。@nakagawasun

2012-06-13 15:17:57
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

デカルトのように幾何学的公理にこだわって、思っている我を心(スピリッツ)のように実体化されるとえらいことになるわけだが、音楽もスピリッツになった時(音楽的に)つまらなくなるからなー。スピノザみたいに(自己)証明を破棄しなきゃだめよー(^-^)/

2012-06-13 08:31:25
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

■ツイートまとめブログ■主体性の量という信心を放置するサディズム http://t.co/0LYnO69L 実在性の量から指導の自動性へ向かう必然性の外部に、主体性の量を信心してしまう人々(^-^)/

2012-06-09 04:15:59
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

スピノザを、指導の自動性の方法https://t.co/iPQTiaKg にした國分功一郎氏にとって、量とは実在性の量ではなく、分からなさの量だ。分からない懐疑論者の主体などは、分かるようになる(自動化する)まで、放っておけばいい。それがスピノザの倫理、つまり指導ということだ。

2012-06-09 03:11:04
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

國分氏の方法。実在性の量から、指導の自動性へ。

2012-06-09 02:41:00
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

國分氏の方法。『知性改善論』が示唆する2つの逆説は、懐疑論者の説得の要請で生まれたデカルト的循環(コギト命題)を実在性の量の否認で再定式化した結果、名目から実在性を証明した神という証明手続き自体が解消され、知性・教育(分かること)の問題(自動性)に解決された。量から自動へ。

2012-06-09 02:35:43
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

バカ(懐疑論者)は放っておけ。神がいるかいないかではない、神を基準に物事考えなければ気違いになるぞ(神存在の証明手続きの破棄)といってるだけだ、というスピノザの方法(倫理)を読むと、そんな気分になってくる。(^-^)/

2012-06-09 02:33:57
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

この國分『スピノザの方法』が突きつける、分からない人を本当に分からせる、という問題は、現代文の授業で毎回頭が痛いのだが、昨晩指摘したように、国語教育における吉本隆明氏の「指示表出」の焦点化ともつながっていて、大変興味深い。https://t.co/1DOcqztU

2012-06-06 19:11:28
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

したがってこれは、國分氏が結論で明言するように、ある種の教育論になっているという点だ。わからない人に無理強いするためにはコギト命題が要請されたのだが、そこでの神は信心される神だ。しかしエチカ冒頭で破棄される神の証明手続きは、知性に矛盾なく合理性を導出してしまう。

2012-06-06 19:07:40
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

https://t.co/bQv506lS なお、私が「神の証明手続きの解消」と更に関数化したものは、國分氏の文中では「実体の系譜学の破棄」という関数で呼ばれていた。いずれにせよ、それが解消されたのは、分からない人(懐疑論者)を説き伏せるのではなく、導く合理性を得たということだ。

2012-06-06 19:03:13
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

國分功一郎『スピノザの方法』を纏めれば、『知性改善論』が示唆する2つの逆説は、懐疑論者の説得の要請で生まれたデカルト的循環(コギト命題)を再定式化し解消した結果、名目から実在性を証明した神という証明手続き自体が解消され、知性・教育(分かること)の問題に解決された、という感じだ。

2012-06-06 18:45:10
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

コギトや神観念を日本語が受容するにあたって、とんでもないミッシングリングが生まれていることだけは確かなのだが、國分氏の提起した、懐疑論者(わからない人)を分からせる必要がない、という問題は、日々現代文を教える立場としては、大いに考えさせられてしまっている。

2012-06-06 18:28:19
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

では國分氏は何を論証したのか? エチカが記号と対象(延長)の平行性によって、神を実体と命名できたのが、知性改善論の2つの逆説、つまり無限ループに陥る懐疑論を説得しないという観点だ。これを誤読すると情念やヘーゲルになったりするのだろう。情けない。(・_・;)

2012-06-04 14:06:13
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

・・はっきりいってスピノザは、ただ読解には対立項が必要だ、そうだとわからないのなら、その対立項の両輪を証明して上げよう、といっているに過ぎないように見える。それがスピノザの平行論なのだが、近代はこうした言語性の誤読として精神を生んでしまう。

2012-06-04 13:56:26
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

量としての実在性(realitas)に対して、属性量による存在(esse)。デカルトが(事物を)実在性の量(リアルさ)で神観念化したのに対して、量をいわば属性化することで、観念(言語)にいわばア・プリオリにある神を単に証明すること。 http://t.co/ASBoj4lA

2012-06-03 20:22:43
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