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まとめられたつぶやき

  • なぜ経済学的手法をマンガ研究に適用するのかというと、マンガ評論の流れをみると、「自分語り」からマンガ表現論へ、という流れみたいなのがある。論者の恣意性から客観性への移行みたいな。ところがマンガ表現論にはその客観性を保証する選択の体系が欠如しているので、結果的に自分語りと同じに。
    hidetomitanaka
    2010-01-15 02:06:26
  • 経済学が保有している選好の体系は効用主義と批判したり主観主義と批判することは可能なのだが、そもそも既存のマンガ表現論にはその批判を行うだけのベースすらも存在していない。なぜなら誰もいままであるマンガ表現がその他のマンガ表現よりも選好されたのはなぜか、を論証してないから。
    hidetomitanaka
    2010-01-15 02:09:40
  • ある書き手でも読み手でも、なぜその表現をほかの表現によりも選好したのか、あるいはある表現をなぜほかの表現よりも好んで読んだか(消費したのか)を順序付けることができないために、マンガ表現論は泉信行、伊藤剛、夏目房之介らすべて単なる表現の標本学であり、原理的には「自分語り」と同じまま
    hidetomitanaka
    2010-01-15 02:16:03
  • そしてマンガ表現論はこの種の主体的選択の問題をスル―したまま、アフォーダンスとかw ある種の社会決定論的なものに依存するようになっているみたい。まあ、経済学の歴史を流用すれば、経済学がないのにいきなり反経済学にふれるとかそんな感じ。
    hidetomitanaka
    2010-01-15 02:19:40
  • ササキハラゴウさんの業績なんかも、マンガ学ではなく、いっきにその確立(主体的選好の学問)を通り越して、反マンガ学に着地してしまいそうな感じw まあ、それでいいのならとめないがw わりとそういうのって安易な途なんだよね。
    hidetomitanaka
    2010-01-15 02:21:12
  • @hidetomitanaka 実作寄りの夏目・伊藤表現論はさておき、ぼくの場合は「作品の表現がどこから来る(作られる,選ばれる)のか」はそもそも論の枠内に入れてないんですが、そういう話でもないんでしょうかね
    izumino
    2010-01-15 02:24:44
  • 泉さんの『冒険』下巻を例にすると視線の力学の話題というのは、マンガという財をめぐる消費者側の選好を示すものです。特に視点の選択についての消費者=読者の選好を顕示するものと考えられますRT @izumino @hidetomitanaka 実作寄りの夏目・伊藤表現論はさておき、
    hidetomitanaka
    2010-01-15 02:32:09
  • 上巻の序で前置きした「習慣」に当てはまる所の話ですね RT @hidetomitanaka: 泉さんの『冒険』下巻を例にすると視線の力学の話題というのは、マンガという財をめぐる消費者側の選好を示すものです。特に視点の選択についての消費者=読者の選好を顕示するものと考えられます
    izumino
    2010-01-15 02:33:53
  • このとき場合も、ある視線の選択が別の視線の選択よりも好まれたのか(選ばれたのか)、泉さんの本には書かれていません。夏目ー伊藤さんたちと同様に、いくつかの視線の選択の可能性(これを選択可能性集合と名付けます)が例示されているだけです。ここに表現論の問題があります@izumino
    hidetomitanaka
    2010-01-15 02:36:43
  • @hidetomitanaka 「習慣」がいかに形成されるかについては、アカデミックな研究に丸投げ、っていうのが上巻時点でのスタンスでしたが、それにもし応える研究の可能性があるなら願ったりかなったりではあります
    izumino
    2010-01-15 02:37:17
  • 経済学には不幸にしてw「習慣形成仮説」というものまで発展しているのです@izumino
    hidetomitanaka
    2010-01-15 02:41:32
  • 「習慣が決める」→有意なデータが揃う研究待ち/それまではデザイン工学を応用 って感じですね、上下巻の時点では RT @hidetomitanaka: このとき場合も、ある視線の選択が別の視線の選択よりも好まれたのか(選ばれたのか)、泉さんの本には書かれていません。
    izumino
    2010-01-15 02:43:21
  • ただ他分野の問題というよりも、ある視線(or表現)がなぜ他の視線(表現)よりも選ばれたのか、それが主観か、習慣か、社会か、いずれでもいいのですが、その選択の体系を明示しないと、ただの標本学になってしまい、選択の体系を「自分」であると放棄している自分語り論と同じに@izumino
    hidetomitanaka
    2010-01-15 02:45:03
  • @hidetomitanaka 選択可能性(無意識に選ばれる可能性のある結果)のモデルの提示と、積極的読解(意識的にそこから選ぶ読み)の提示は分けて行っているので、「なぜ選択されたかを書いていない」というより「選択の体系と、その選択結果は分けて書いている」という認識ではいますね
    izumino
    2010-01-15 02:52:54
  • @hidetomitanaka あとは、そもそも娯楽でも芸術でもいいのですが、文芸関係の研究に「これこれこのようにして選ばれる」というメカニズムの解明が果たして必要なのか、ということは別問題として俎上に上げられるべきなのでしょうね
    izumino
    2010-01-15 02:57:25
  • ここでいう「選択の体系」というのは、ある集合から任意の選択肢をとってきて、Aの選択肢がBの選択肢よりも選ばれることを首尾一貫して提示することです。ただ単に積極的に選ぶ行為に注目しているのではなく、彼がBではなくAを採ったことを一意で決めることを意味するのです@izumino
    hidetomitanaka
    2010-01-15 02:58:23
  • それと「選択可能性」というのは、あくまで選択される蓋然性があるものの集まりのことですので、「選択の結果」とは分けて考えておいたほうがいいと思います。@izumino
    hidetomitanaka
    2010-01-15 02:59:59
  • ただグルンステンが物語計画がコマ枠の選択を決めると書いていたり、浦沢直樹が「この表現はこれしか考えられない」という趣旨の発言をしてます。この発言を「選択の体系」に翻訳すると、彼らが選択の基準に合理性を前提にしていることがわかります。選択メカニズムの解明は重要です@izumino
    hidetomitanaka
    2010-01-15 03:08:00
  • @hidetomitanaka さきほどの「選択可能性(無意識に選ばれる可能性のある結果)のモデル」=「選択の体系」というのは、「選択されうる結果の集合を導くモデル」といったところでしょうか。ぼくの漫画論は「表現」を対象に論じるのではなく認知モデルから論じるアプローチですので
    izumino
    2010-01-15 03:08:08
  • 他にも泉さんの「見えないベクトル」の問題も、視線の選択ですが、その選択が右から左への流れというバイアスがあるようですが、これも選択の体系を明示すれば、合理的なバイアスなのかそうでないのかという問題も理解することが容易になります。@izumino
    hidetomitanaka
    2010-01-15 03:10:56
  • @hidetomitanaka ぼくが「いかに作られるか」をほとんど排除して語ろうとしてることと、それゆえにその浦沢直樹の発言も据え置く必要があることにも自分なりの意義があるのですが、それはまた機会があれば詰めたい所ではありますね(微妙に、説明の需要はなさそうでもありますが……)
    izumino
    2010-01-15 03:12:30
  • ほかにも斉藤環さんや藤本さんらが取り組んでいるようなジェンダー的視点、より広義にはアイデンティティの問題も選択行為の問題として理解すべきだと経済学は主張するに至っています。@izumino
    hidetomitanaka
    2010-01-15 03:13:14
  • 創作のレベルでは、漫画はインプロヴィゼーションなのかそれともコンポジションなのか? という議論が関わってくるし、読みのレベルでは、漫画が非常に再読性の高いメディアであることが関わってくるはず。まぁ社会学に関しては浅学ですので、専門のかたの研究に乗っかれるなら乗っかりたい所存ですね
    izumino
    2010-01-15 03:18:24
  • ちなみにある一定の仮定のもとで、「いかに読むか」と「いかに作るか」を分けて=分権化した場合の選択の合理性と、作者もまた読者であると考える「いかに読むか」と「いかに作るか」が同じと考えるグルンステン流のやり方の選択の合理性が論理的に等値であるという証明もあります笑@izumino
    hidetomitanaka
    2010-01-15 03:18:58
  • @hidetomitanaka あー、とりあえずぼくの認識でも「作るのと読むのは別。でも作者は読者と同じ」というイメージですね
    izumino
    2010-01-15 03:23:39
  • @hidetomitanaka そんなところで、わざわざ質問に答えていただいて、どうもありがとうございました。よい刺激になりました
    izumino
    2010-01-15 03:25:08
  • @hidetomitanaka さんと @izumino さんの対話が非常に興味深かったので、勝手ながら現時点までの分をTogetterにまとめさせていただきました。 http://togetter.com/li/3252
    iwa_jose
    2010-01-15 03:26:40
  • @iwa_jose 誰かやるのではないかと……どうせなら岩下さんもコメントを残すべき
    izumino
    2010-01-15 03:27:48
  • @izumino 表現論において選好の問題が欠けていて、標本学にしかなっていない、というのは要するに「(我々は)こんな風に読んでいる」ということを語っているに過ぎないということ、そして「我々」を前提としている時点で「ぼくら語り」と同断であるというのは端的に事実でしょう。
    iwa_jose
    2010-01-15 03:34:34
  • 実のところ「ぼくら」という読者共同体の成立が、表現論を可能にしている、ということについては瓜生吉則氏の論文で指摘されていますし、具体的に批判の対象にされた夏目さんも了解しているハズです。
    iwa_jose
    2010-01-15 03:37:04
  • @iwa_jose ウチは建前上「表現論じゃない」ことになってるからややこしいですね……
    izumino
    2010-01-15 03:37:29
  • @izumino とはいえ「我々はこう読む」という論じ方をしているという点では、いずみのさんも(そして自分も)、「表現論」同様に「ぼくら語り」に間接的かもしれないけれど依存していることになるのだろうと思います。
    iwa_jose
    2010-01-15 03:41:28
  • 楽屋裏の話をすると、『昴』でゾーンの話を引用したのって、「普通の読者(ぼくら)の感性からまったく離れた、超感覚の人間だっているはずだよね。そんな人が漫画描いたり読んだりしたら?」というネタを実は仕込んでいたりするのだった
    izumino
    2010-01-15 03:42:17
  • @izumino そういう意味で「ぼくら語り」批評はものすごくマンガ論の歴史においては重要で、『テヅカ・イズ・デッド』における批判によって埋葬されるにはまだまだ早いというか、むしろ功罪も含めてちゃんと検討する必要はあるなと思っています。
    iwa_jose
    2010-01-15 03:43:45
  • みやもさんが「らき☆すた らっきー☆ちゃんねる全24話を同時に見てみる」を張って「人間の認識力を越えてるよね」という話をした時に「そこですばるの出番ですね」とコメントしたりとか http://www.nicovideo.jp/watch/sm1623018
    izumino
    2010-01-15 03:49:01
  • もっと具体的には『第九征空騎兵師團』の主人公のような超感覚があると、当然漫画は変わってしまう。そういう話を書く予定はあったりしました
    izumino
    2010-01-15 03:50:34
  • 自分の見解では表現論は、主観的な読みの経験を、一般的に了解可能な形で提示するための洗練されたツールという位置付けです。そして、それはそれで、マンガを語る言葉を豊かにするのものです。
    iwa_jose
    2010-01-15 03:50:40
  • しかし、@hidetomitanakaさんも指摘されるようにそのような「我々の読み」がいかにして可能なのかについては問われるべきなのだと思います。この解明に関する経済学の有効性については不勉強なのでわかりかねますけど。
    iwa_jose
    2010-01-15 03:53:00
  • @izumino 「超感覚があったら」という仮定が可能なのも、やはり「我々の感覚」が前提ということになりますよね。で、そこで「感覚」や「認識能力」の話になるのは、いずみのさんが「選好」を促しているのが認知的働きだと基本的に考えているからなのだと。
    iwa_jose
    2010-01-15 03:59:48
  • @iwa_jose 正確には本の物質的形状と身体的姿勢と認知の組み合わせですね
    izumino
    2010-01-15 04:01:57
  • 重かったりでかかったりすると持ち方は変わる、目の良さによって遠ざけ方も変わる、まぁ相互にパラメータがフィードバックしていく関係ではあって、そういうニュアンスは下巻で臭わせているようで……ちゃんと書いてはいないか
    izumino
    2010-01-15 04:04:32
  • なのでまぁ、あるていど(ラプラスの魔的な)因果論は語れるのでは? というモデルのピースは用意しているつもりなのですが
    izumino
    2010-01-15 04:07:13
  • @izumino なるほど。テキストと読者の物理的関係と認知、ですね。その辺りでいずみのさんの議論から「選好」の問題がまったく排除されているとはぼくも思わないですね。というか、今後展開されるハズという期待。実証性を高めるにはいろいろハードルありそうですけど。
    iwa_jose
    2010-01-15 04:18:06
  • 一方で自分が表現論の影響から出発しつつも歴史研究志向になっているのは、現在の「我々の読み」が歴史的な蓄積に支えられている部分が少なからずあると思っているからで、そこを掘り下げていく際に「選好の体系」についての問題意識は重要かも、と感じた次第。
    iwa_jose
    2010-01-15 04:18:40
  • いずみのさんのアプローチは共時的で、自分の考えている方向性は通時的なものだと思うので、それぞれに相補的になれればいいな、と思ってます。そして経済学的な方法論の導入は単純に興味深い。自分は明らかにマンガ論どっぷりなので。
    iwa_jose
    2010-01-15 04:22:34

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コメント

  • iwa_jose
    @hidetomitanaka氏によるマンガ表現論は「選好の体系」についての問題意識を欠いているために結局は客観性を担保できていない、という問題提起に端を発する@izumino氏の対話(という概略は適切?)。その後、@iwa_jose自身も@izumino 氏とのやりとりをしたので、これも追加しました。
    iwa_jose
    2010-01-15 04:39:58
  • iwa_jose
    「マンガ表現論」はそこで扱われる表現が選ばれるに至った「選好の体系」についての議論を欠いているため、結局は客観性を担保できていない、とする@hidetomitanaka氏の問題提起(という理解で良いか)に端を発する@izumino氏とのやりとり。追加で@izumino氏と@iwa_jose自身のやりとり。
    iwa_jose
    2010-01-15 04:47:54

編集の履歴

2010-01-15 04:47:54 iwa_jose さんが更新しました。
2010-01-15 04:39:58 iwa_jose さんが更新しました。
2010-01-15 04:29:23 iwa_jose さんが更新しました。
2010-01-15 03:26:30 iwa_jose さんが更新しました。
2010-01-15 03:21:58 iwa_jose さんが更新しました。

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