現象学のねちっこい変態さはお好き?

フッサールのデカルト的省察を読みながら、フランスの現代思想に突出する性感論的な吟味について、たまに(おそらく批判的に)ツイートする個人的なメモ帳(忘備録)です(^-^)/
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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

同十四節超訳。思う=意識なら、何を思うのかを問える。デカルトは思う対象を問わずに、思っている我だけを述定した。しかし、我が思われるよりも前から世界が信憑されているように、思っている我より、意識の対象を問うこと。志向性の地平化。

2012-06-16 19:07:32
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

フッサール省察第十三節超訳。思っている我を問わないデカルト的省察からの拡張は、我=主観性を研究対象に転換し、そのことで超越論的主観性の間主観性をも対象とでき、独我論を回避できる。

2012-06-16 19:05:51
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

私は無神論という安易な逃避は誤謬だと思っていて、好き嫌いで言うと嫌いなのだが、マルクスの存在論でさえ、無神論と誤解できないと、なんとなく感じていた。安定志向の制度化のようになった社会主義的なものが、いま非理性的な様相に見えるのも、そういう直感からのように思える。

2012-06-15 07:50:35
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

夜半 https://t.co/YMIi3Ls9 の続き。そもそもデカルトが省察するとおり、我が疑われるのは、欺く神(操やつる神)によってであって、スピノザのような欺かない神は疑いもしない。にも拘らず無神論者は、無際限に操られていると疑うのだ。もちろんそこに理性があるのではない。

2012-06-15 07:18:59
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

自動化が自由意志と反対なのではなく、自動化する自由がある、とかそんな具合に見える。マインドコントロールのように操作されることと、自動化を同一視することこそ、何らかな論理操作に見える。

2012-06-14 23:45:49
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

実際の自動性https://t.co/YMIi3Ls9 は、中沢新一氏がいうようにhttps://t.co/FN0WLL3t イデオロギーというより音楽で、操られて気分を害したら、ただ音楽の自動性がストップする、というだけに思える。それでも操られるのだろうか?

2012-06-14 23:34:27
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

通常、スピノザは様態(神を実体という本性にし、我を本質を表現する様態)にしたと見做される。この捉え方は、エポケー=実体ならぬ、エポケーで実体を隠す書き方=分析(超越論)で、やっと可能になっている。このように分析とは、実体との等式の留保のために与えられる言語だ。

2012-06-13 18:16:27
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

では、フッサールは、エポケー(判断停止)を、「疑いの余地のないこと=実体」と等式で結ぼうとしているのだろうか? つまりエポケー=実体なのだろうか? おそらくデカルトと同様、等式で結ばないために、分析的な省察を行なっているのだろう。

2012-06-13 18:09:55
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

捕捉すると、フッサールによれば、デカルトが「思っている我」=「疑いの余地のないこと」=「実体」としたというのは、心身二元論でいう心の実体化、霊魂のようなものに、「閉ざす」ことなのだという。この霊魂、実体=心が、超越的な主観と呼ばれる。

2012-06-13 18:05:11
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

それに対して、フッサールは、そうした実体の等式そのもの、つまり「疑いの余地のないこと=実体」を、「思っている我」と等号で結ぶ、という関係性を保留にしようとしているのだろう。

2012-06-13 18:00:36
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

デカルトが我=実体と定義したことになるのは、スピノザの再定式化によれば、実在性の量を省察=分析したからに過ぎない。神を実在性の量(リアリティー)とすると、実体は神ではなく、その対立項の「思っている我」の側に布置される。しかし等号で結ぶ鋭さは得られない。

2012-06-13 17:57:55
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

スピノザを國分流に「実体の放棄」と捉えた上で、フッサールの省察を読み進めると結構楽しめる。フッサールはデカルトが、疑いの余地のない前提として、超越論ではなく超越的(二元論的な)我思うを置いたというのだが、スピノザが相対化したように、それは思っている我=実体という等式のことだ。

2012-06-13 17:54:51
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

たとえばデカルトの空の例や太陽の例に対してスピノザがどうしたとか、そう読むといい。でも太陽の例に対してスピノザは幾何学というのだが、それも最後に裏切られて、幾何学定理を片付けて(実体の証明手続きの破棄)次に進むのがエチカだ、とかなるのだけど。@nakagawasun

2012-06-13 15:17:57
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

ハイデガーといえばフッサールの第一省察の付論「デカルトは超越論的な転換に失敗した」では、デカルトの先入観が説明されているけど、スピノザの方法のように、それを実体との関係で証明(証明の破棄)できてないんです。http://t.co/yYCfvcXQ @nakagawasun

2012-06-13 14:38:33
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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

疑わなくてもすむための原因を証明するのが彼らの哲学ですよ。それをやめられない。たぶんスピノザだけが証明をやめる証明を見出したという感じ。フッサールですら判断停止と言いつつ証明を続けますから。@nakagawasun しょうめいのはき…

2012-06-13 14:32:31
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

フッサールの省察、デカルトの陥った幾何学では明証な経験という学問の真正のイデアは得られない。あらゆる現前=経験に先行する第一経験こそが十全な明証だ。量的すぎて証明手続きを破棄する述定に至らずウロウロしてるだけね。病気ね(^-^)/ http://t.co/sSCUUxp7

2012-06-10 20:29:45
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