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私家版ハイデガースタディー03 カント書へ還れ Vol.1

超越論的構想力はなぜ日本では無縁なのか。悟性(論理学とか神)という宿痾を解体する現象学、その徹底がハイデガーによる払拭なのだが、悟性のようなものがなければ、その払拭は極めて不要なものだ。つまりハイデガーの読みづらさというのは、悟性がそもそも要請されていないのだから、当たり前なのだ。そうした本来のハイデガー批判に戻るにあたり、『存在と時間』第二部といわれる『カント書』が、カントの用語でその払拭を遂行した手つきに、もう一度帰るべきだ。カント書に帰れ。 http://togetter.com/li/775805 から続く私的ツイートの集積所です。続きはこちら http://togetter.com/li/791136
人文 哲学 ハイデッガー ハイデガー 現象学
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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri
ツイートまとめ(^-^)/ 今この現代に偶然・必然という様相論は何を意味しているか、という皆の関心事。 facebook.com/kaoru.ohmoto/p…
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri
河出道の手帖『木田元』巻頭の鷲田氏との高田珠樹氏の対談。(日本はテンポラリテートを神秘的に受容したが、ナトルプ報告以前から)木田は「キルケゴール的動機」いわゆる「気分」で、存在と時間を捉えていた。翻訳シンポの高田氏の発言の解説のよう。 pic.twitter.com/RQHy3trHGf
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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri
なぜ日本人が殊更テンポラリテートの罠に落ちるたのか、対談はそれに触れている。罠とは西欧では当然の、ある→作られてある→プラトンの被制作性→ユダヤキリスト教の被造物と、ゾルゲである「私の『ある』ことが気になる」が結びつかず、木田氏によって目から鱗が落ちたと鷲田氏。
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri
対談は翻訳シンポの直前。翻訳シンポで、従来訳は「私の『ある』ことが気になる」を踏まえられず、ある種の迷いがあったが、木田元はそれを踏まえ、謎とされたテンポラリテート(時間性)に目処をつけ、メルロの「反哲学」という概念で、被制作性=被造物に直結させた、という話。
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri
鷲田が木田元まで「ある」を「作られてある」、すなわち西欧独特の被造物という問題だと分からなかったというのは拍子抜け。さらに木田元の「反哲学」がメルロ晩年の概念です、という鷲谷に、高田が知らなかったというのも意外。つまり、ハイデガー、メルロと横断的に読めたのは木田ぐらい、という話。
哲学少女 @ecila808
@nckrx970 西田はノエマ的とか過程的といっているので、対象的と言ってもいいと思います。まあ一面に独我論性をちゃんとやれるのは、「(絶対)無」のおかげなんですかね。ライプニッツもヘーゲルもやはり「有」が思考のベースになっている(特にライプニッツは)
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri
無から初めてはならないtwitter.com/sunamajiri/sta… という、ハイデガー以降のいわば反地動説を考えている時に、哲学少女の、ライプニッツの有に対する西田幾多郎の絶対無の話を捕捉してしまった。twitter.com/ecila808/statu…
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri
そこで、昨日紹介しそこねた木田元追悼号の鷲田清一と高田珠樹の対談。というのも、ナトルプ報告まで、日本ではテンポラリテートがいわば絶対無のように誤解され、木田元だけがメルロの反哲学から、その誤解を免れた、という趣旨になっていたからだ。bit.ly/1KCL1Ra
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri
この道の手帖木田元追悼号の鷲田清一・高田珠樹の対談は、ナトルプ報告の日本における受容について、ある意味重大な証言である。高田がナトルプ報告の紹介者で、木田元は三木清の手紙ですでに察していた、という話なのだが。それを察していないと、どうなるかが問題。
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri
ナトルプ報告については『ハイデガー読本』森秀樹『アリストテレスの現象学的解釈 その胚胎していたもの』が掻い摘んでいる。そこから主要部分を抜粋すると bit.ly/1zL2GTN アリストテレスのソフィアによって疎外されたピュシスを回復するフロネーシスの話。
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri
鷲田・高田対談は、主にナトルプ報告の受容の遅れから、『存在と時間』のテンポラリテートが、いわば絶対無のように神格化され、被制作性の解体として立てられたはずの時間性が、日本において受容上の混乱になった、ということを明らかにしている。bit.ly/1KCL1Ra
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri
この話は、哲学や思想の議論とは無縁の読者には、単に創造主と被造物の関係などない、という現代では自明とされる一点twitter.com/sunamajiri/sta… だけが読み取れる話なのだが、それを明確に記述することの困難が問われている。 pic.twitter.com/iYWWHqZSsh
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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri
対談で高田珠樹は、ナトルプ報告を察した木田元が、『現象学の根本問題』の順序から手許性に至った、というのは、先日の丸山文隆twitter.com/sunamajiri/sta… の『カント書』直前までの話。 pic.twitter.com/597PeLD1VZ
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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri
続いて鷲田清一が、それを補うのが「反哲学」だが、それはメルロ=ポンティーの概念というと、高田珠樹が知らなかったという。このようにハイデガーとメルロを横断できたことでテンポラリテートが無のような罠にならない画期的な日本語の先駆となった。 pic.twitter.com/vJJZ9grfPs
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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri
木田元が『カント書』ではなく『現象学の根本問題』とメルロの「反哲学」によって、テンポラリテートの文脈を回復したというのが興味深い。ハイデガーでは『カント書』に至らなければ、造物主は駆逐されていないように思えるからだ。twitter.com/sunamajiri/sta…
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri
さて、これを捉え損なう、つまり禅でも西田でもよいが、絶対無でライプニッツに対向するとどうなるか、というのが日本人の具体的な関心事。正月のNHK戦後史証言・吉本隆明でも、梅原猛が京都学派を攻撃する吉本隆明を熱弁していた。 pic.twitter.com/WYcAefbJLU
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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri
ツイートまとめ(^-^)/ 木田元追悼対談に想う、「絶対無から、つまり禅から初めてはならない」。facebook.com/kaoru.ohmoto/p…
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri
ところで、木田元追悼対談で、より重要なのはこのテクネーの部分。黒ノートシンポでハイデガーを弁護できないと辛辣だった三島憲一氏も出てくるが、黒ノートでは明解にmachenshaft(工作機構、もっといえばユダヤによる作為性)。 pic.twitter.com/slfffYu1L1
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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri
このテクネー~machenshaftでは、作為に対する自然が出てくるのだが、問題は多義性だろう。丸山文隆が指摘する自然の多義性(手許性)l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf… の前に、ナトルプ報告が指摘するアリストテレスの生の多義性を克服したいだけなのだから。
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri
簡単にいえば、被制作性(造物主)を解体することしか、思考はできないはずなのだが、そのことで生み出されるある種の多義性が、思考の正確さを歪めてしまい、いつのまにか作為性・自然・絶対無のようなものが、突然取ってつけたように出てきてしまうのだ。この副産物の処理が問題になってしまう。
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri
意味があるでしょうね。中沢も「西田だけが自覚した」と触れてますね。問題は書けているかどうか、だけですが、ハイデガーが無から出発しないことに拘るのは、被投に行くためのある種の手続きのようですからね。twitter.com/sunamajiri/sta… @ecila808
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri
英米の経験論が意識を主語に対象化してしまうのに対して、述語化=対象化する意識の場所を与格にするのがドイツ観念論の牙城なんでしょうね。ハイデガーで「無」は~ (続)@ecila808 bit.ly/1xTs1qA 絶対無という語を西田は主語として使うことはほぼなく
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri
(続)ハイデガーで「無」は『カント書』で丸山bit.ly/1DSBVh4 の抜粋箇所のように、いわば「無」それ自体になるようですが、西田はそこに独自に向かおうとしているように見えますね。@ecila808 pic.twitter.com/HJj8J7RGqm
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哲学少女 @ecila808
@sunamajiri 不案内ですが、ハイデガーの無は、あらぬのではなくある的に、存在者の輪郭線というか、浮き彫りにするものというか、対立的な感じがします。西田は存在者と存在の区別をしないので、比べるのがなかなか難しい気もします。
哲学少女 @ecila808
@sunamajiri もちろん比較は無意味だとか、西田は禅的だから特別だとか言いたいのではなく、むしろ私も現代哲学のコンテキストに西田を位置付けたいのですが、その内在的困難という意味ですね。これに関しては検討中というか勉強中ですね。
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