現象学のねちっこい変態さはお好き?
- sunamajiri
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もしすべての事物の原理が、論理的公理や数学的定義と同じ仕方で存在するならば、事物そのものは、公理の適用や定義の帰結と同じく、この原理から必然的に生じることになるだろう。そして、諸事物にもそれらの原理にも、自由な選択という意味に解される動力因のための場所はもはや残されないだろう。
2012-07-06 14:23:41人はしばしば「本質」という言葉を使って、事物を考察する場合、事物の本質を事物の現象の特定の内容に無関係なもの・それだけで存立するものとして固定する。人として大切なのは行為や行状ではなく本質なのだとか。
2012-07-06 14:03:56学校国語の正解は学校の倫理といわれるが、受験国語ではそれを相対化して、学校なんかなくても自分、と思える肝試し(学校からの卒業)に近く、さらに、なぜそういう差異が必要か、という主体(哲学)の現象学化まで射程に入るのが、難関大学の国語だったりしそうだ。
2012-07-06 13:42:03ニーチェ、バタイユ、ブランショらは私に取って何を代表していたのか。1.主体という範疇、その優位、その創設的機能を問い直せという招待。2.ただしそうした作用が思弁に限定された場合は、それが何の意味も持たないだろうという確信。-M・フーコーとの対話-
2012-07-06 07:55:38まるでメルロ=ポンティの正反対みたいな言い回しww(^-^)/ https://t.co/48aDkU8i 「感覚存在における色彩のように、理念が精神的客体に現れるということだ。そして、目が生物の色彩を知覚するように、人間の魂―主観―が理念を知覚する」
2012-07-06 03:46:54https://t.co/48aDkU8i 理念に本質に客観的観念に感覚に知覚か。シュタイナーも豪勢に倒錯してそうねー。きっと魂がみえるんだわww (^-^)/
2012-07-06 03:42:30客観的観念論という言葉で言いたかったのは、理念における本質的なものは、理念が人間の主観のなかに現れるということではなく、感覚存在における色彩のように、理念が精神的客体に現れるということだ。そして、目が生物の色彩を知覚するように、人間の魂―主観―が理念を知覚するということである。
2012-07-06 03:36:56言ってますねー。そもそも現象学によらなければ「分からない」というのがねー。確かに〈対象〉が錯覚に思えると分かった気になるものなのかしらねー。(・_・;) @sasaki_makoto 竹田青嗣は「現象学で全てが分かった」と言ってましたね
2012-07-05 22:02:28うわぁー^言語哲学者のジョン・R・サールも「志向性」(原著1983)という本を書いてる.先達いましたか QT @sunamajiri 志向性。意識は常に何者かについての意識である。ブレンターノから継承したフッサールの現象学用語。ブレンターノの志向性の概念はスコラ哲学に起源があり~
2012-07-05 03:47:03志向性。意識は常に何者かについての意識である。ブレンターノから継承したフッサールの現象学用語。ブレンターノの志向性の概念はスコラ哲学に起源があり~ http://t.co/hYeeZgax
2012-07-04 04:01:11なるほど。(^-^)/ @aoinatsunosora 批判の矛先は〈志向性〉じゃなくて〈世界そのもの〉です。
2012-07-04 03:50:13私ジェットコースターとか遊園地のアトラクション苦手なのだけど、子供の頃、熱海の後楽園で、ビックリハウスというので、家の壁が上下左右が入れ替わって、上下感覚が分からなくなり、すごく怖かったことがある。意識は何か基準にしていたものを失うと、たしかに混濁するというか怖い。(・_・;)
2012-07-04 03:47:05意識はどこまでも志向性のはずだけど、意識自体が能動的にある、そんな存在論がメルロ=ポンティが批判した後期フッサールにはあるのかしら? まあ確かに無音の拷問とかでは、意識が志向性でなくなって、気が狂うらしいですが。@aoinatsunosora いや、〈志向性〉の意味です。
2012-07-04 03:44:23いや、〈志向性〉の意味です。笑 RT @sunamajiri: 個人的にはあまり覚醒したくなくて、どちらかというといつも寝ていたいww(^-^)/ @aoinatsunosora 〈世界〉という混濁と、〈自分〉という混濁が向かい合う時、そこに〈意識〉が立ち上がる。
2012-07-04 03:37:39意識があるから、潜在意識も無意識もあるので、無意識が単体で面白いとも思えない。それより、デカルトのコギト以降、人間は自分を意識と思えてるらしいのだが、確かに言われてみれば、意識がある。昏睡状態の時にないものがある。これはどうしたものか。死んだらやはり失くなるのだろうか?
2012-07-04 03:35:17さて、この「意識」という概念。もちろんデカルトやスピノザの17世紀にはあまり意識化されていない。カントあたりが起源の概念になるのでしたっけ? http://t.co/x4kwHFkX
2012-07-04 03:28:42もっというと、夢見心地が個人的には好きだったりする。その方が気持ちよさそう。でも意識は確かに、混濁を払拭する方向に、どうしても作用してしまう。夢から覚めるし、起きてしまうし、意識してしまう。意識はやはり辛い。
2012-07-04 03:26:34個人的にはあまり覚醒したくなくて、どちらかというといつも寝ていたいww(^-^)/ @aoinatsunosora 〈世界〉という混濁と、〈自分〉という混濁が向かい合う時、そこに〈意識〉が立ち上がる。
2012-07-04 03:24:32ところで、その「混濁する世界」、つまり気を確かに持てない、ということが問題とすると、この「意識」が、いつから概念化されたかが気になってしまう。
2012-07-04 03:23:49さっきFBで西欧人の図像趣味https://t.co/aORpbmTn はどぎつくて、日本の日常風景はどれも対抗できないな、と思っていたのだが、彼らの「意識」は混濁したり、ぼうっとしてなかったりしそうに、確かに見える。
2012-07-04 03:21:33世界とは混濁です。RT @sunamajiri: 現象学では、意識は志向的にあるのだろうが、志向的にでなくても(ただ)意識がある(ように思える)から、困るのだ。たとえば身体が拷問で激痛でも、意識は混濁しても、なかなか気を失えない。この意識があるというのが、辛い(・_・;)
2012-07-04 03:20:41この前、蝶々夫人の原作の話で、西洋人が長崎の風景がしみったれていて、女の子にしか自然を発見できなかったというのが模試に出たのだが、この意識が混濁するような凡庸な日常みたいなものからは、確かに気を確かに持つことの方に、つい関心がいってしまうのだろう。
2012-07-04 03:19:21