#勝義方便メモ No.5考察
23)その周辺の考察記録については、拙考察「純粋仏教の再構築」 http://t.co/3d2AaW8v のあたりに関連もまとめて載せさせて頂いております。ただ今回は「無分別知」に関して改めての考察を考えていませんが、必要となりましたら行う予定であります。 #勝義方便メモ
2012-09-05 16:02:3024)さて、空性の現量了解は、いかなる事態であるのかということですが、煩悩障のみならずに所知障をも断じて、一切智を得ることで、自在に善巧方便行を展開できる段階に至れた状態と言え、それはつまり空性の現量了解以前では、煩悩障までしか断じれ無いと考えることができます。 #勝義方便メモ
2012-09-05 16:23:4625)煩悩障を断じるとそれ以降は、煩悩による悪業を成すことが無くなり、それで良いと考えることもできるかもしれません。しかしながら、断じる以前において集積した悪業、悪業の習気・薫習は残ったままで、輪廻の弊害を完全には取り除けていない状態であることが考えられます。 #勝義方便メモ
2012-09-05 16:30:3326)つまり、業(悪業)、悪業の薫重・習気の障害を断じることが必要となるわけであります。煩悩障の次にそれらを断じるためには、善業の集積が望まれることとなり、その善業を円満に行うためには、一切智を得ることによっての善巧方便の実践が必要になると考えることができます。 #勝義方便メモ
2012-09-05 16:37:5827)世俗菩提心を起こし、仏道を歩む上においては、まず十善行、つまり十不悪行によって、煩悩を抑えて、煩悩による悪業をこれ以上絶対に積まないように、これから先は悪行を行わないようにとすることが重要となります。ただしこれは消極的善行と言える段階であると考えます。 #勝義方便メモ
2012-09-05 20:47:4928)世俗菩提心・世俗方便の域において、消極的善行を進めることで、やがて煩悩障を断じることは可能であると考えます。また、世俗菩提心・世俗方便の域における慈悲・利他行の実践も煩悩障を断じる上である程度効果的な役割を果たすことになるものであると考えます。 #勝義方便メモ
2012-09-05 21:14:1229)「衆生を所縁とする慈悲」、あるいは世俗菩提心によっての「法を所縁とする慈悲」による慈悲行・利他行・善徳行の行いが、本当に煩悩の影響を受けずに行えているのかどうか、世間八法の中におけることに留まってしまってはいないかどうかの見極めも重要となります。 #勝義方便メモ
2012-09-05 21:20:5630)拙私見ながら、煩悩障を断じていない状態にて行う慈悲・利他・善行は、十不悪行の効果とさほど変わらず、期待するほど悪業の排撃には効果を及ぼさないものではないかと考えております。もちろん、煩悩障を断じていくための効果は十分に望めると思われます。 #勝義方便メモ
2012-09-05 21:28:2331)つまり、煩悩の影響を完全に排除できていない慈悲・利他・善行による善業が一応はあり得ると仮定して、その善業はあくまでも今世における煩悩による悪業を排撃させるだけの効果しかなく、一応今世限定で最低でもプラマイゼロにしかならないと考えることができます。 #勝義方便メモ
2012-09-05 21:37:5032)それでは、過去世において集積した悪業、悪業の習気・薫習などは残されたままであり、輪廻の弊害を取り除くことはできません。簡単に述べさせて頂くと、世間一般において何か犯罪をした罪滅ぼしにボランティア・奉仕活動でその罪を打ち消したいとする感覚と同レベルであります。 #勝義方便メモ
2012-09-05 21:49:3233)世俗菩提心・世俗方便、消極的善行、あるいは、「衆生を所縁とする慈悲」、「法を所縁とする慈悲」による積極的善行・慈悲利他行では、過去世において集積した悪業、また、悪業・煩悩の習気・薫習を完全に排撃することは難しいと言わざるを得ないと考えることができます。 #勝義方便メモ
2012-09-06 10:14:1134)過去世において集積した悪業、また、悪業・煩悩の習気・薫習をも完全に排撃するためには、発勝義菩提心からの空性現量了解による所知障の断滅にての一切智の獲得、その一切智に基づいての勝義方便としての慈悲・利他・善行の実践が必要となるのだと考えることができます。 #勝義方便メモ
2012-09-06 10:21:3435)また、人無我の了解によって、煩悩障を断滅させて、法無我の了解によって、所知障を断滅させることができると考えれば、「法無我の了解」と「空性の現量了解」は同意と解することもできると思いますが、少し意図するところは異なっているものであると思われます。 #勝義方便メモ
2012-09-06 11:00:2236)「人無我」と「法無我」は、特に執着心、「人我執」と「法我執」を離すために説かれたと解せます。もちろん、「空性」の理解が重要となる点では変わらず、所知とは、知られるべきもの、つまり、一切法であり、一切法無我を悟ることが所知障断滅とも言えなくはないと思われます。 #勝義方便メモ
2012-09-06 11:11:4537)ここで、一般社団法人・文殊師利大乗仏教会( http://t.co/MUuUDoEv )・代表理事・野村正次郎様( @shojironomura )より、『無我を所縁とする観想は煩悩障を断じることをメインとするのが帰謬派の説』であるとの御教示を賜りました。 #勝義方便メモ
2012-09-07 08:43:2338)野村正次郎様( @shojironomura )( http://t.co/QNM2o7fX )は日本の中でも中観帰謬論証派の思想哲学、チベット仏教に通暁なされておられる数少ないお方であります。この度の御教示、誠にありがたく存じております。 #勝義方便メモ
2012-09-07 10:10:0239)『無我を所縁とする観想は煩悩障を断じることをメインとするのが帰謬派の説』と致しますと、観想はいまだ世俗諦の域を出ない、つまり、私たちの思考・概念・思慮・分別など比量における空性理解に留まり、空性の現量了解には至っていない段階と解することができます。 #勝義方便メモ
2012-09-07 10:13:5340)また、野村正次郎様( @shojironomura )より、『そもそも帰謬派では法無我も人無我も空の基体が違うだけで空性としては同じものであり、煩悩障は無明とその種子、所知障はそれらの習気であるとされています』との御教示も賜りました。 #勝義方便メモ
2012-09-07 10:18:0941)人無我も法無我ももちろん空性として当然に異なるものではなく、各々における空性の基体に対しての空性の理解レベルの相違を示すものであると考えることができます。いずれも空性であると世俗諦のレベルにおける理解として煩悩障の排撃に役立つものになると考えられます。 #勝義方便メモ
2012-09-07 10:29:3942)「煩悩障は無明とその種子、所知障はそれらの習気であるとされています」ということは、煩悩障は、煩悩を生じさせる根本的な原因となる無知、つまり無明と、その無明を生じさせる業(悪業の潜在力)、つまり、業(悪業の潜在力)というものを「種子」と解することができます。 #勝義方便メモ
2012-09-07 10:35:2343)そして、「所知障」は、根本的無知である「無明」と業(悪業の潜在力)である「種子」によっての「習気」(じっけ)となるわけですが、このことについては、ニンニクの例えによる説明が「ダライ・ラマの仏教哲学講義・大東出版社」にあったと思い出し、その箇所を探しています。 #勝義方便メモ
2012-09-07 10:46:5444)「もしニンニクを器に入れておくと、その器にはある種の匂いが溜まります。そこでその器をきれいにしようとしたときには、まずニンニクを取り除く必要があります。それと同様に、実体的存在を思い込む意識、これはちょうどニンニクのようなものですが、・・(次に続く)」 #勝義方便メモ
2012-09-07 11:00:1945)(承前)「それが、実体的存在を現象させる潜在力を心の中に植え付けるのです。こうして、心という器の中に残っているニンニクの匂いのような潜在力を心から浄化するためには、まず、心から実体的存在の思い込み全てを取り除かなければなりません。・・(次に続く)」 #勝義方便メモ
2012-09-07 11:03:2746)(承前)「まずニンニクを取り除き、そして始めてその匂いを取り除くことができるのです。(引用・以上まで)・【ダライ・ラマの仏教哲学講義p111より】」。ニンニクは根本的無知である「無明」、無明を生じさせる悪業、つまり「種子」と解することができます。 #勝義方便メモ
2012-09-07 11:10:1147)そして、この場合のニンニクの匂いが、無明・悪業によって心に染みついてしまっている、いわゆる「薫習」されてしまっての「習気」、あ、これが業の潜在力のことを言うと解した方がやはり良かったかな・・しまったかな。この「習気」が所知障と言えるわけであります。 #勝義方便メモ
2012-09-07 11:20:16