【但し】曹操による鄴-邯鄲広域防御コンプレックス攻略から見る地政学【保留】

nisekuro_at さんの力作ですがあえなく保留になりました 続き 中国古代史を中心とした治水の重要性について http://togetter.com/li/372376
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黒田タケフミ @nisekuro_at

特に外へ逃げ出す下り。その魏略原文:「孚出北門,遂從西北角突圍得去。」ほぼ訳:「李孚は北門を出て,遂に西北の角より圍みを突いて(突破して)去るを得た。」これは環壕で完全包囲されてる時の行動というより、まだ夏四月、曹操が攻城戦に取り掛かり土山を作ったりなんだりしてる頃のことじゃね?

2012-09-12 22:19:38
黒田タケフミ @nisekuro_at

ということでその魏略の記述を検めて読み直すと次のようにも読める。 原文:「會太祖圍鄴,尚還欲救鄴。行未到,尚疑鄴中守備少,復欲令配知外動止,與孚議所遣。」

2012-09-12 22:19:50
黒田タケフミ @nisekuro_at

ほぼ訳:「太祖が鄴を囲むに会すと,袁尚は還って鄴を救おうと欲した。行って未だ到らざるに,袁尚は鄴中の守備の少ないことを疑い,復た審配を令て外の動止を知らしめんと欲し,李孚と<与>遣わす所のものについて議した。」

2012-09-12 22:19:56
黒田タケフミ @nisekuro_at

ということで此処で俺はこれを曹操による鄴攻囲戦の初めの頃のことと比定することにする。こういうことだ。予想外の曹操の速攻と思いがけない鄴城の立て続けの内応劇、特に審配と共に守りを任せて留めた蘇由の内応は、袁尚に袁譚攻めを打ち切って帰還しようかどうかの決断を強いるほどの衝撃だった。

2012-09-12 22:20:10
黒田タケフミ @nisekuro_at

そこで袁紹は主簿の李孚に「審配と連絡を取って鄴城内の現状がどうなっているか」を探るための術を相談、李孚が自分が行けば鄴城の状況も分かるしその場で審配と今後を図ることもできるとして鄴へ向かい、策略を用いて厳しい包囲を敷いていた曹操側を出し抜き、鄴へ入る。

2012-09-12 22:20:26
黒田タケフミ @nisekuro_at

中に入って見ると、意外と兵力は減っているわけでなく、鄴内の士気も悪くない、となれば復命して主袁尚に袁譚攻めを継続させてそのまま平原を陥とし、返す刀で鄴を救援すれば良くね?審配、どう思う?いいね!でもそれが叶うまで鄴内の兵糧が持たないんだよね。

2012-09-12 22:21:08
黒田タケフミ @nisekuro_at

ああ、そういうことなら僕に一計がある。審配、心配すんなよ。降伏の振りして城外へ老弱なものを全部出してしまえば兵糧の問題解決しねえ?いいね!あとその審配、心配すんなよって笑うとこ?

2012-09-12 22:21:22
黒田タケフミ @nisekuro_at

まあそういう話し合いがあったかは知らん。でも概ねこんな慮りが両者の間で成立したのでないか?

2012-09-12 22:21:29
黒田タケフミ @nisekuro_at

つまる所袁尚側の所期構想はこういうものであったのではないかと考えられる。「曹操が鄴を攻めても落ちないようにガッチリ固めて袁譚攻略に向かう。曹操が鄴攻めに難渋してる間に平原を落として袁譚を斬って袁家後継者争いに蹴りを付け、返す刀で曹操を鄴の審配と挟み打ちにしてくれる!」

2012-09-12 22:21:36
黒田タケフミ @nisekuro_at

実際、袁尚は曹操が鄴を攻めても袁譚攻めの止めて軍を返すと言う事をせず平原攻略を続けている。袁尚がとって返すのは鄴が環壕で水攻めされていよいよ危なくなってからなのだ。

2012-09-12 22:21:46
黒田タケフミ @nisekuro_at

鄴から復命した李孚は鄴の守備には問題が無く、平原攻略が長引けば問題となる筈だった兵糧問題も策を駆使して解決したと報告しただろう。袁尚の平原攻めが続いていたことからもそれは判る。

2012-09-12 22:21:57
黒田タケフミ @nisekuro_at

袁尚側は曹操の所期構想で鄴の守りが危ぶまれたものの、腹心である李孚が鄴の内情を探りに行ってみたところ深刻なものでなく、所期構想を続けて構わないと判断した。確かにこの段階ではそう判断してもそれもまた妥当な判断だとしか言いようが無い。

2012-09-12 22:22:04
黒田タケフミ @nisekuro_at

しかし、それが大きな誤りだった。

2012-09-12 22:22:11
黒田タケフミ @nisekuro_at

一方曹操側。というか曹操。まんまと李孚に出し抜かれること二度。みすみす鄴へ入り込むのを許し、まんまと鄴の包囲を突破されてしまった。しかも老弱者を外へ大放出!てのさえ許して。攻囲の初期でのことだけにこれで鄴は兵糧攻めが効くかどうかさえ怪しくなった。

2012-09-12 23:24:49
黒田タケフミ @nisekuro_at

魏略では李孚に出し抜かれたのを愉快に「いやあー、やられたやられた」などと笑う曹操の様子が記述されているが、どうだったか。諸将や部下の前では笑っては居たものの、一人執務室に居ると怒り心頭、七転八倒、ぐぬぬ・・・っ!と言う心持だったとしても可笑しくない。

2012-09-12 23:24:56
黒田タケフミ @nisekuro_at

そして此処から曹操の有り得ざる反撃が始まる。袁尚の主簿李孚の策にまんまと出し抜かれた曹操は、自分を出し抜いた李孚の策の背後にあるものを透徹する。

2012-09-12 23:25:02
黒田タケフミ @nisekuro_at

自分を出し抜いてのけたのは誰か?袁尚の主簿である李孚。見事な策だが引っかかる点がある。鄴の包囲を抜けるには他にも策の講じようはあった筈。彼らが大量の老弱者を放出したのは何故か?兵糧が不安だから?攻囲は未だ始まったばかりなのに?つまり、袁尚は暫く鄴救援には来ないということか。

2012-09-12 23:25:18
黒田タケフミ @nisekuro_at

別駕の審配と主簿の李孚は其の事を話し合ったのではないか?  物語では此処に気付いた所で曹操の鬼気迫る哄笑が入ると面白い。  恰も妻女山より眺め見た武田方のたなびく炊煙への違和感から武田方の策略を見破り、所謂きつつき戦法を瓦解せしめた謙信の如き洞察力。みたいな。

2012-09-12 23:25:30
黒田タケフミ @nisekuro_at

曹操の反撃が始まる。鄴の重囲をいつもの如く前線のケツ持ち役、曹洪に任せると、曹操は漳水を遡上、上党からの兵站を担っていた毛城を攻め潰す。毛城を攻め潰して即座に軍を還して鄴の包囲に乱れが無いのを確認した上で。鄴-邯鄲広域防御コンプレックスを解体すべく、

2012-09-12 23:25:49
黒田タケフミ @nisekuro_at

鄲、易陽、渉のほぼ同時攻略に踏み切る。東の翼端にある易陽は徐晃が担当し、防御コンプレックスの中枢たる邯鄲は曹操自ら当たり、攻め潰した。渉は若しかしたら毛城を攻め潰した所で、その部隊を別に将官に任せてそのまま攻撃に当て、曹操自身は少数の供廻りで鄴の本陣へ帰還したのかもしれない。

2012-09-12 23:27:12
黒田タケフミ @nisekuro_at

邯鄲を守るは沮授の子の沮鵠だったけど、曹操は防げなかった。そして邯鄲落ちるの報に、攻められていた易陽と渉は降伏した。あっという間の、広域防御コンプレックスの解体であった。  その後のことは三国志に記される事態をそのままなぞるだけとなる。

2012-09-12 23:27:26
黒田タケフミ @nisekuro_at

まあ触れる点があるとすれば、もたもた浅い塹壕を作って審配らに嘲笑われてたのは、もしかしたら曹操の怒涛の攻勢を覚られまいとして曹洪がやってたことかも知れない、そして曹操が帰還して一気呵成に環壕を仕上げて水攻め完了って流れだった可能性があるよなってこと位か。

2012-09-12 23:27:34
黒田タケフミ @nisekuro_at

事態の逼迫さについに袁尚も鄴救援に向かう決断をせざるを得なくなる。  ただ此処で袁尚がひょっとしたら未だ事態を甘く見ていたのかもと思われるのが、鄴解放に向かう袁尚が率いていたのが兵万余と言う点。これは若しかしたら平原の包囲を未だ残しての取って返しだったかもと疑われる所だ。

2012-09-12 23:28:56
黒田タケフミ @nisekuro_at

そして袁尚の帰還路がまっすぐ大道を通って曹操へ直接向かうのでなく、西山に沿ってのルートだったこと。これが袁尚に最後のフラグを立てた。この辺りの曹操とその部下の対話は三国志を見て頂くのが早いが、結局曹操にとってこの違いはなんだったのかと言うと、

2012-09-12 23:29:16
黒田タケフミ @nisekuro_at

鄴-邯鄲広域防御コンプレックスが曹操によってガラクタと化したその惨状を見て、最早敗走して立て篭もる先が無いと袁尚が認識し、上級将校らが鄴解放に失敗したら先がないと認知し、下々の兵がこの惨状に触れ見た上で、彼らの士気が上がるものだろうか、

2012-09-12 23:29:36
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