キリング・フィールド・サップーケイ #4
「あの実は、ニンジャが……」トバツの声はドクターに遮られる。「これはもう、典型的な心的外傷と急性薬物中毒とIRC中毒による、一時的な自我崩壊ですね」ドクターはサイバー聴診器を外しながら、渋い顔で事務的に言った。ワモはサイバーサングラスをかけたまま、ぽかんと車椅子に座っている。 2
2012-10-07 16:03:07「君たち若い子はね朝から晩まで薬物とIRCをやりすぎです」ドクターがその言葉を言うのは朝から数えて数十回目だった。「増えてるんですよ、すごい勢いで増えてる。だからこんな専門科ができる。でもお薬と機械ありますからね。入院した方がいいですね、お金あれば。IRC遮断できますからね」 3
2012-10-07 16:07:26ドクターの言葉は冷酷かつ画一的であったが、真実でもあった。十数年以上前から……LAN直結技術が普遍化し、ハッカー達がコトダマ空間の伝説を囁きあうようになってから……重度のIRC中毒で自我を失う若者が増え始めた。直結された人格とIPが混線し……希薄化あるいは変容してゆくのだ。 4
2012-10-07 16:17:13「ということは、入院すれば直るんですね。嬉しいです!」トバツは短絡的な笑いを笑った。「そうですね、直ると思います」ドクターが渋い顔で言った。ドクター自身も軽度のIRC中毒であり、堅苦しい定型の言葉しか喋れなくなって久しい。妻と物理空間で話す時も、彼は終始このような口調なのだ。 5
2012-10-07 16:24:36車椅子を押すトバツは、晴れ晴れとした顔で診察室を出た。薄暗いセルロイド調の廊下には、軽度から重度まで大勢の患者達が並び、各々が覗き込むIRC端末のサイバー光で顔を照らし出されていた。壁には眩暈を誘うほど超高速で流れる赤色ドット文字盤が多数。これもまた、マッポーの世の一側面か。 6
2012-10-07 16:33:12「どうでした?」両膝を簡易サイバネ化したアキラが問う。「フィックスできるらしいです。お金は借金したのでたくさんありますから入院させます。退院したら幸せな生活を送るんです」トバツが言った。それから不快そうに顔をしかめた。エレベータを降りてこちらに近づいてくる男を発見したからだ。 7
2012-10-07 16:41:54その男は薄汚い防塵トレンチコートを着込み、ハンチング帽を目深に被っていた。ドージョー・ヤブリのあの男だ、とトバツは直感した。眼光は鋭く、常に焦燥感に囚われているかのような、どこか険のある顔つきだった。その男の存在は、周りの人間たちを実際穏やかならざる心地にさせた。 8
2012-10-07 16:48:51「ドーモ。……私の本業は実はドージョー・ヤブリではない。あの混乱の中で伝え損ねたが……私の名はイチロー・モリタ。探偵をしている」彼は付け加えた「まっとうな探偵ではないが……」私立探偵タカギ・ガンドーの事を思い出しながら。ガンドーは今ガイオン下層か、それともオキナワで静養中か。 9
2012-10-07 16:57:34「イチロー・モリタ=サン……まさか貴方が」アキラが驚きの表情を作った。暗黒非合法探偵の都市伝説を知り、藁にもすがるような想いで依頼メッセージを送信したのは、アキラだった。暗号化された依頼メッセージはナンシー・リーによるUNIX解析とフィルタリングを経て、彼に届けられたのだ。 10
2012-10-07 17:03:15「何しにきたんですか?」サイバーサングラスの下で、トバツはデソレイションに向けたのと同じ目を、その胡散臭い探偵に向けた。「あの殺し屋は恐らく、まだ生きている……」イチロー・モリタが言った。……無論、その名は偽名である。彼の本名はフジキド・ケンジ。すなわちニンジャスレイヤー。 11
2012-10-07 17:11:23「エッ!薄気味の悪いことを言わないでくださいよ、きっと路地裏でのたれ死んでいますよ!」トバツは震えた。そして死神を目の当たりにしたかのように、探偵から目を逸らした。消え去ってくれ、と心の中で祈りながら。その拒絶の態度は、アキラからもイチロー・モリタからも、容易に見て取れた。 12
2012-10-07 17:16:30彼ならばもっと巧くやってのけただろう、と心の中で歯噛みしながら、探偵は小さなオリガミ・メールを取り出してトバツに渡す。「万が一、あの殺し屋の影がちらついたら……連絡をいただきたい……」「ハイ」トバツはそれを受け取り、尻ポケットに捻じ込んだ。「シツレイした」探偵は踵を返す。 13
2012-10-07 17:25:00「ハァーッ、ハァーッ……モリタ=サン、待ってください」アキラがサイバネ膝のクランク音を鳴らしながら追いすがる。探偵は振り返った。「あの男の情報か」「いえ、消息不明です。ドージョーは放置されて、無人のままですし」「そうか……連絡方法は知っての通り」「カラテを教えてください」 14
2012-10-07 17:31:57フジキドは思いがけない言葉に驚き、一瞬目を見開いて、アキラを見た。それからいつもの表情に戻って、かぶりを振った。「……私にカラテを教える資格は無い。私はセンセイではない。ただの探偵だ。他をあたってくれ」「あなたもニンジャだからですか?」アキラは声を潜めながら食い下がる。 15
2012-10-07 17:41:07フジキド・ケンジは答えない。エレベータに向かい歩を進める。「だとしたら、ニンジャになるための秘密を……」アキラが食い下がる。フジキドは不意に振り返り、アキラの目を覗き込む。「一線を踏み越えるな……!」ジゴクめいた恐ろしい声で「私には無理だ、人に物事を教える資格は、無い……」 16
2012-10-07 17:49:40アキラが震え上がり棒立ちになっている間に、探偵は自我を見失った患者の群れに紛れて、エレベータで下に運ばれていった。責任放棄であろうか?……否、ドージョー・ヤブリのプロトコルによれば、カンバンを破壊され解散が宣言された時点で、門下生らは自分で行き抜く道を模索せねばならぬのだ。 17
2012-10-07 17:54:42アキラは現実の中で自省した。ニンジャとは何だったのか。何をムキになっていたのか。不意に気恥ずかしくなった。ニンジャなど実在しない……フィクションの存在だ。自分は何か一足飛びに安易な手段でカラテを高めようとしていたのでは……それがニンジャだったか。彼はそう結論づけ恥じ入った。 18
2012-10-07 18:00:26……今宵も、冷たい重金属酸性雨がネオサイタマを濡らし、漢字サーチライトが夜闇を切り裂いていた。 19
2012-10-07 18:11:00同時刻。第七総合病院から十数キロ離れた薄暗い路地を、黒い旧型セダンが違法スピードで蛇行運転していた。背面ガラスには銃弾痕。タイヤの数箇所にスリケンが突き刺さり、正常な運転は不可能。セダンは一列に並んで歩道を歩いていたペケロッパ教徒6人を連続で跳ね殺し、ブロック塀に激突した。 20
2012-10-07 18:14:15「クソが……まだ脚が治っちゃいねえんだぞ……」デソレイションはひしゃげたドアをニンジャ筋力でこじ開け、車外へと出る。下半身は黒いハカマに素足。上半身は目出し覆面とタンクトップが一体化した、硬質ラバーを思わせる質感の黒い生成ニンジャ装束。助手席のオイランはすでに死んでいた。 21
2012-10-07 21:06:35ブロック塀の先には、だだっ広い廃駐車場。錆び付いたフォークリフトがセダンの激突を受けて傾き、キイキイと軋んだ音を立てた。赤い炎に包まれたスリケンが何発もセダンに突き刺さり……KADOOM!オイルタンクが爆発。デソレイションは片足を引きずり、爆風を背負いながら逃げた。 22
2012-10-07 21:13:55