唐の筑紫都督府駐留に伴う「風土記」の磐井記事と和同開珎・富夲銭について

唐の筑紫都督府駐留時、その占領の苛烈さは同時代資料ではなく、「風土記」の磐井記事に擬されていたのではという疑念と、それに関連して、和同開珎が駐留唐軍のいわゆる「軍票」ではなかったのかという疑念、さらに富夲銭との関連を考察。 ※伝東大寺軒丸瓦の考察を追加。併せて以下も参照下さい。↓  「和同開珎」発行の謎を考察する―"儀狄 @giteki 先生の中国貨幣史講座"を受けて― http://togetter.com/li/606101
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じねん @jinensai

天武12年の銅銭のみ使用・銀銭使用禁止→銀使用禁止撤回という謎の「詔」も、「無文銀銭」の計数貨幣としての使用を禁じ、秤量貨幣(地金)としての存続(松村恵司氏の考察)を認めるものだとすれば、銅銭との交換比率崩壊をその原因に据えることが可能かも知れない。

2012-10-31 15:54:38
じねん @jinensai

「和同開珎」が負の遺産(銅銭価値暴落)として遺された対処としてならば、朱鳥改元前日の「徳政令」や翌年(持統元年)の「利息免除」あるいは蘇我政権下の「富夲銭」を引き継ぎ持統天皇・文武天皇による「新富夲銭」発行、鋳銭司任命という流れは理解しやすくなる。

2012-10-31 16:23:59
じねん @jinensai

その結果「富夲銭」・「新富夲銭」への切り替えと「和同開珎」を正式貨幣として追加認定することを秤にかけ、後者が選択されたのであろう。そのために武蔵国秩父の「熟銅」献上に因んだ改元「和銅」が行われた。平たく言えば「日本鬼子」方式という実に「日本的」な手法の「はしり」なのではないか。

2012-10-31 16:34:00
じねん @jinensai

伝東大寺の軒丸瓦の蓮子(れんし)が富夲銭の文様と完全に一致。蘇我氏-富夲銭-大仏のラインがかなり決定的に裏付けられる。→ http://t.co/Mi5I6RQC(伝東大寺軒丸瓦)

2012-11-27 23:34:35
じねん @jinensai

富本銭→奈良の大仏(なかったことにした)。 ①富本銭 blog.livedoor.jp/otakarajoho/ar… ②複弁八葉蓮華文軒丸瓦(伝東大寺出土) narahaku.go.jp/collection/d-8… ③難波京 city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/00… 側溝、井戸、古墳出土は抹殺を免れた。

2015-05-10 20:03:26
じねん @jinensai

雲太、和二、京三…出雲大社が国譲りの代償なら大仏も政権交代クラスの代償だろう。河内の智識寺の仏像にインスパイアされて聖武天皇が、というのが表向きだが、藤原四兄弟の天然痘による相次ぐ死や天変地異が動機というのが定説だが、原因と結果が不審。それらが何かの「祟り」の結果ならむしろ納得。

2015-05-10 20:12:03
じねん @jinensai

飛鳥池工房跡(富本銭鋳棹発掘)出土の「天皇聚露弘□□」木簡の解釈も、「天皇が露を集めて広く…」という解釈に当て嵌まるのは、飛鳥池が蘇我氏の本拠であることからも、皇極天皇と雨乞いを競った蘇我蝦夷(最初に降らせた)を充当できる。宮門(ミカド)として発行した流通貨幣が富本銭ではないか。

2015-05-10 20:29:40
じねん @jinensai

和二=奈良の大仏はその事績を「なかったこと」にし、供養するものと考えればあの巨大さは説明がつく。藤原四兄弟を呪い殺した怨霊への畏れは相当なものであったろう。鎮めるためにあの大きさが必要だったし、流通していた富本銭を「蓄銭叙位令」他で集め尽くし、この世から消し去らねばならなかった。

2015-05-10 20:37:09
じねん @jinensai

伝東大寺軒丸瓦の富本銭と共通する「七星」マークは大仏の本来の目的を暗示というより明示している証拠のように思える。

2015-05-10 20:38:51