#勝義方便メモ No.7

本考察では、菩提心と空性との関係、空性と慈悲・利他行との関係、勝義諦と世俗諦の二諦などの理解を目的として行う予定です。 1 http://togetter.com/li/200586 2 http://togetter.com/li/219557 3 http://togetter.com/li/266384 4 http://togetter.com/li/320014 続きを読む
0
前へ 1 2 3 ・・ 6 次へ
川口英俊@往生院六萬寺@副住職@仏教 @hide1125

51)「縁起の意味」=「空の意味」、「縁起」→◎←「空」も、世俗(諦)の域における議論・論証は抜けないものでありますでしょう。帰謬論証の論理も、否定する対象を世俗(諦)にて措定することによって、その対象をいったん認めない限りは、当然に成り立たないものとなります。 #勝義方便メモ

2013-01-28 13:00:31
川口英俊@往生院六萬寺@副住職@仏教 @hide1125

52)帰謬論証であっても、否定対象という世俗(諦)措定に依らなければならない以上は、「縁起」なる世俗(諦)領域にあるものとなります。もちろん、否定対象とは、「真実執着・真実把握、迷乱知・顛倒知、有染汚の無明、倶生の諦執」などによって構想された「自性」となります。 #勝義方便メモ

2013-01-28 13:08:26
川口英俊@往生院六萬寺@副住職@仏教 @hide1125

53)もちろん、否定対象である誤って構想された「自性」、あるいは「自相」を世俗において一応仮としてでも認めるのか、一切認めないのかとするところで、前者が自立論証派、後者が帰謬論証派として立場的な相違があることには十分な理解を必要とするところでもあります。 #勝義方便メモ

2013-01-28 13:44:35
川口英俊@往生院六萬寺@副住職@仏教 @hide1125

54)しかし、帰謬論証派の立場においても、否定対象に依らない限りは、論証が成り立たないのは明らかであり、世俗(諦)としての「縁起」の範疇にあることは到底免れないと考える次第であります。結局、いかなる論理であっても世俗(諦)を抜け出ないということでもあります。 #勝義方便メモ

2013-01-28 13:55:16
川口英俊@往生院六萬寺@副住職@仏教 @hide1125

55)第一「縁起の意味・理解」=「空の意味・理解」、第二「縁起」→◎←「空」、第三「縁起」←◎→「空」、第四「論証因・縁起」→「論証帰結・空」、縁起が「世俗(諦)」であるとして、第一~四における「空」の捉え方についてもう一度考えていきたいと思います。 #勝義方便メモ

2013-01-30 10:08:56
川口英俊@往生院六萬寺@副住職@仏教 @hide1125

56)まず、第一「縁起の意味・理解」=「空の意味・理解」においては、第一、二、三層の縁起共に縁起の意味・理解が「世俗(諦)」の域にある以上は、イコールとしての「空(・無自性)の意味・理解」も世俗(諦)としての意味・理解の扱いとなるのは必定となります。 #勝義方便メモ

2013-01-30 10:41:52
川口英俊@往生院六萬寺@副住職@仏教 @hide1125

57)次に、第二「縁起」→◎←「空」、第三「縁起」←◎→「空」ですが、縁起が世俗(諦)、空が仮に勝義(諦)としてであるならば、縁起・世俗(諦)が聖者・賢者による見方・顕現、空・勝義(諦)が仏陀・如来による見方・顕現と考えることが可能かも知れません。 #勝義方便メモ

2013-01-30 11:33:36
川口英俊@往生院六萬寺@副住職@仏教 @hide1125

58)仏陀・如来による見方・顕現は「空」であるとしても、それが何ものであるのかについては、世俗諦として私たち凡夫による見方・顕現では「縁起」として把捉できるとしても、では、仏陀・如来はそれが何ものかであるのかについて、「縁起」ではどのように把捉できるのであろうか。 #勝義方便メモ

2013-01-30 15:08:58
川口英俊@往生院六萬寺@副住職@仏教 @hide1125

59)仏陀・如来はそれ(◎)が何ものであるのかについては、一切知者であるため、正確に把捉できるものとして顕現していると考えられます。ただ、私たちが縁起の第一層から第三層にて存在を捉えようとするのとは全く別次元のレベルであると考えるのが妥当でありますでしょう。 #勝義方便メモ

2013-01-30 15:26:46
川口英俊@往生院六萬寺@副住職@仏教 @hide1125

60)私たち凡夫はそれが何ものであるのかについては、縁起としてにせよ、空としてにせよ、一応は存在の態様・有り様についてはそのようには言えるにしても、正確に把捉はできないのでありますが、一切知者であれば、勝義諦としての縁起と空を把捉できるということであります。 #勝義方便メモ

2013-01-30 16:29:56
川口英俊@往生院六萬寺@副住職@仏教 @hide1125

61)つまり、仮定するとすれば、第一層から第三層の縁起は世俗諦であるとして、一切知者により顕現しているのは、勝義諦としての「縁起」、つまり第三層の縁起の理解が世俗諦としての限界であるとして、それを超えた第四層の縁起として顕現しているということが考えられます。 #勝義方便メモ

2013-01-30 16:43:57
川口英俊@往生院六萬寺@副住職@仏教 @hide1125

62)それは図式化すると、一切知者においては、「勝義諦・縁起」→◎←「勝義諦・空」、「勝義諦・縁起」←◎→「勝義諦・空」でなければならないこととなります。つまり、「世俗諦・縁起」→◎←「勝義諦・空」、「世俗諦・縁起」←◎→「勝義諦・空」はあり得ないと考えられます。 #勝義方便メモ

2013-01-30 16:47:09
川口英俊@往生院六萬寺@副住職@仏教 @hide1125

63)さて、ここで本来、一切知の内容とは何であるのかについても考える必要が出て参ります。それは例えば一切全てを知るとしても、素粒子から暗黒物質やブラックホールも含めた宇宙の全ての存在の内容までもを詳細に知る必要があるのかどうかという議論であります。 #勝義方便メモ

2013-01-30 22:07:02
川口英俊@往生院六萬寺@副住職@仏教 @hide1125

64)一切知者・全知者証明の問題となって参ります。ダルマキールティ論師は、「四聖諦」の知、カマラシーラ論師は、「全ての形象」の知、プラジュニャーカラグプタ論師は、二元論を超えた次元における「不二」の知など、一切知とはいかなる事態であるのかに関しての議論があります。 #勝義方便メモ

2013-01-31 08:08:16
川口英俊@往生院六萬寺@副住職@仏教 @hide1125

65)また、この一切知に関する議論で振り返って考えなければならないのが、釈尊の「無記」についてであります。十無記、十四無記として代表されますが、これは、釈尊とマールンキャープッタ師との議論における「毒矢の例え」としても広く知られている内容であります。 #勝義方便メモ

2013-01-31 08:19:47
川口英俊@往生院六萬寺@副住職@仏教 @hide1125

66)仏教の最大の目的は、悟り・涅槃の境地に到達し、一切衆生をこの迷い苦しみの輪廻から済度するための善巧方便の働きを獲得することであります。その目的のために必要なことだけを知れば良いのか、あらゆる存在・形象における全てを知る必要があるのかということであります。 #勝義方便メモ

2013-01-31 08:29:17
川口英俊@往生院六萬寺@副住職@仏教 @hide1125

67)正直、一切知・全知に関しては、釈尊の「無記」についての方針も鑑みて、善巧方便のための知が一切知・全知であると考えております。例えば、ビッグバン以前の状態やダークマターの正体が解明されたところで、仏教の目的のためにはほとんど役に立たないと考えるからであります。 #勝義方便メモ

2013-01-31 08:36:23
川口英俊@往生院六萬寺@副住職@仏教 @hide1125

68)また、「不二」の知に関しては、最終的には「無分別知」への指向度合いが強くあり、安易に離戯論・離言や無分別知という言葉で片付けたくないという拙生側の理由もあり、また更に結局は、「何かわけのわからないもの」で終わってしまうことも避けたいと考えております。 #勝義方便メモ

2013-01-31 09:42:54
川口英俊@往生院六萬寺@副住職@仏教 @hide1125

69)それと、「不二」の知に関しては、梵我一如、ヴェーダーンタ哲学における不二一元論を想起させてくるところもあり、いわゆる「如来蔵思想」の議論へと向かわなければならないようにもなるため、本拙論の趣旨から外れていく可能性もあり避けておきたいというところでもあります。 #勝義方便メモ

2013-01-31 09:48:43
川口英俊@往生院六萬寺@副住職@仏教 @hide1125

70)では、善巧方便のための知が一切知・全知であるとして、その内実となる内容は何であるのか、ここが今回の論考の中でもかなり重要なこととなります。善巧方便のための知が、つまり「縁起」、特に第一層の因果関係の縁起の内容とも深く関わってくることになるからであります。 #勝義方便メモ

2013-01-31 10:28:20
川口英俊@往生院六萬寺@副住職@仏教 @hide1125

71)それは、善巧方便のための知というものが、四聖諦を説法するための悟りの縁起(順観と逆観)であり、または、釈尊の悟りとして有名な「十二支縁起」(順観と逆観)としての縁起であるのかというところであります。因果に関しての縁起はもちろん第一層の扱いとなります。 #勝義方便メモ

2013-01-31 11:35:17
川口英俊@往生院六萬寺@副住職@仏教 @hide1125

72)善巧方便のための知が、仮にも四聖諦を説法するための悟りとしての縁起(順観と逆観)、また、釈尊の悟りとして有名な「十二支縁起」(順観と逆観)の縁起となれば、これを世俗諦としておいて良いのかどうかを考えなければならないことになります。これは重大な内容であります。 #勝義方便メモ

2013-01-31 20:36:06
川口英俊@往生院六萬寺@副住職@仏教 @hide1125

73)ここで想起すべきは、ナーガールジュナ(龍樹)大師が中論において「十二支縁起」を一章を設けて、ただ羅列なされたところについての意味であります。釈尊の悟りの内実として後代にまとめ上げられた十二支縁起。この扱いについてはやはり慎重さを要さねばならないと考えます。 #勝義方便メモ

2013-02-01 07:16:07
川口英俊@往生院六萬寺@副住職@仏教 @hide1125

74)四聖諦を説法するための悟りとしての縁起(順観と逆観)、また、釈尊の悟りとして有名な「十二支縁起」(順観と逆観)の縁起は、明らかに因果関係の縁起となります。これを単に第一層の縁起の中に含めて世俗諦としてしまうのは、あまりにも安易なことではないかと考えます。 #勝義方便メモ

2013-02-02 10:24:53
川口英俊@往生院六萬寺@副住職@仏教 @hide1125

75)もちろん、四聖諦の苦・集・滅・道、無明から老死にいたる十二支縁起も、各個それぞれは第一層から第三層の縁起の範疇にあって、実体としてあるものではなく、空・無自性なるものであります。だからといってこの重要な教説を軽視して良いことにはならないと考えます。 #勝義方便メモ

2013-02-02 11:16:25
前へ 1 2 3 ・・ 6 次へ