【コラム】世界に愛が溢れるバレンタインの日に、なぜか「死生観」について熱く語ってみた
- tkatsumi06j
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法難と即身成仏の違い
焼き討ちによる殉死と即身成仏による殉教は本質的に違います。RT @mikagerobeppu: 即身仏より法難で探した方が適当かと。 http://t.co/dkG65ysF
2013-02-15 12:20:00結局、宗教としての価値観でなくて自分の価値観でしかはかれないのなー。 自分の唯物的世界観を基準にしてる時点で、既に宗教への誤解がある。それを指摘したんだが。
2013-02-15 12:21:59受動的な「法難」と能動的な「殉教」の違い
@mikagerobeppu 外敵があってその中に受動的に身を投じるのと、自ら教義に基づき主体的に殉ずるのでは本質的にその行為の持つ意味が違います。殉教の定義が文字通り教義に殉ずるということならば、現代キリスト教と現代仏教にそう大差はない。教義に殉ずる人は少ないという意味です。
2013-02-15 12:28:05話の元になったバレンタインデーの殉教は宗教理念を通した結果、刑死させられたというもの。 即身仏は自ら穴に籠ってミイラになるというもの。 仏教の法難と呼ばれるものは政治的に仏教弾圧されたり、布教などが禁止され抵抗して罰を受けたり刑死させられるもの。 どっちが近いか一目瞭然。
2013-02-15 12:28:02@mikagerobeppu それは古代ローマの時代のキリスト教ですし、当時迫害されていたキリスト教徒が教皇の命令に背いたため処刑されたというだけのことでしょう。
2013-02-15 12:33:07@tkatsumi06j その通りです。そしてそういった殉教に近いのは、仏教で言えば即身仏より法難だ……と先ほどから申し上げているのですが。
2013-02-15 12:37:56@mikagerobeppu ヴァレンティヌス司祭の場合は、迫害されている中で教皇の名に背いたら殺害されることは必至だった。それでも教義に殉じて死を賭して結婚の儀式を取りはからったからこそ、後に聖人として崇められるになったのだと理解しています。
2013-02-15 12:35:25@mikagerobeppu 法難だったら、司祭個人の処刑という形ではなく、法難の定型ともいえる焼き討ちなど一家受難の仕打ちを受けるのではないでしょうか。ヴァレンティヌスは死を賭して結婚の儀式を行った。これは法難ではなく、自ら主体的に教義に殉じたものだと私は考えますが。
2013-02-15 12:38:29で、殉教によって当事者が救済される……という発想は東西共に同じです。即身仏は自身が仏になると同時に他者を救済するのが主眼なので、多少違って来ます。
2013-02-15 12:40:24ここで言いたいのは「殉教しても意味が無い」という感慨は単に唯物論に近い我々の実感としてのものでしかない……てこと。当事者はガチで救済されると思ってるからそれに殉ずる訳で、そこに客観性とか求めてません。彼らの中では「それが事実」なんです。
2013-02-15 12:43:07@tkatsumi06j 法難=焼き討ちというのが既に誤りです。大きいものを指す場合が多い為にそう思われがちですが、さっきのWikipediaの記事内だけでも個人や少人数に対する刑罰が課された例が記載されてます。
2013-02-15 12:47:09@mikagerobeppu とくにWikipediaの記事などは参照していません。すみません。布教を禁じられている中で布教を行うという全般的な宗教的受難と、その中でとくに結婚を禁じるという固有の法令に違反することで処刑されることを覚悟の上の行動を取ることは私には別に思えます。
2013-02-15 12:49:53法難の受難者はみな殉教者なのか
@tkatsumi06j 「宗教理念で法的に禁止された宗教的儀式を行った結果、刑死すること」と「宗教理念で法的に禁止された布教やそれに伴う宗教的な儀式を行った結果、刑死すること」とは全くの別物だと判断されているのですね。そう捉えようとする事自体は、個人の自由だとは思いますよ。
2013-02-15 12:59:40@mikagerobeppu たとえば焼き討ちというのは、ただそこに寺院や教会があるだけで受ける仕打ちです。焼き討ちを受けた人々がみな「殉教者」とみなされるかといえばそうではないでしょう。受難の人々であると思いますが主体的な行動による「殉教」とは本質が違うと思うのです。
2013-02-15 12:55:09@tkatsumi06j 仮にそう仮定しても、殉教者がいない事にはならないし、禁止されてなお布教や宗教行為をやめなかった結果として刑死した人々がいたのは変わらないんですが。 ここまで認識した上で「本質的には違う」と仰りたいのなら、私は止めませんよ。
2013-02-15 13:02:37ヴァレティヌス司祭は、迫害時にもかかわらず主体的に行動をとり教義に殉じた。だからこそ「殉教者」=martyrとして聖者にまで祭り上げれた。ただ布教あるいは信仰することで受難する人々がすべて「殉教者」となれる訳ではない。ここには、もしかしたら東西の価値観の違いがあるのかもしれない。
2013-02-15 13:00:38@mikagerobeppu そうですね。神学論を語れるほど詳しくはないので個人的主観に過ぎません。また東西で「殉教」の捉え方が異なるのかもしれないですが、西洋では特定の行動を行い殉教した者のみが「殉教者」と認められています。受難するものがすべて殉教者ではないようです。
2013-02-15 13:03:07