関孝和について

http://togetter.com/li/521570 についての典拠や異聞などを挙げてみました。 参考 三上義夫『文化史上よりみたる日本の数学』 平山諦『関孝和』『和算の歴史』『和算史上の人々』『和算の誕生』 続きを読む
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【生年について】

むらやまこういち💉💉 @murapyon71

関孝和の生年。 明治期に、寛永十四年と寛永十九年三月との両説があった。寛永十九年説は、北川朝鄰明治二十五年八月発行『数学協会雑誌』の「本朝数学史料」がもとである。寛永十四年三月説は、これまた北川朝鄰が明治四十年四月六日の関孝和先生二百年際式辞に述べたのがもとである。 (つづく

2013-06-22 22:51:49
むらやまこういち💉💉 @murapyon71

これに対し三上義夫は、昭和七年の小論『川北朝鄰と関孝和伝』で「寛永十九年生の説は、ニウトンと同年の生誕と見て川北氏自ら推定」と述べている。 (つづく

2013-06-22 23:06:57
むらやまこういち💉💉 @murapyon71

平山諦が引く三上義夫の小論では「大正五年に北川朝鄰が帝國學士院に私を訪ひ、…寛永十九年の説はニウトンと同年の生誕と見て、川北氏自からの推定だと語られた」とある。これら寛永十九年三月説否定の論拠である。

2013-06-22 23:08:17
むらやまこういち💉💉 @murapyon71

寛永十四年説も、平山諦が述べるところによれば「三上義夫は検討を重ねたが、確実な根拠は得られなかった」とある。

2013-06-22 23:10:45
むらやまこういち💉💉 @murapyon71

東京大学総合文化研究科の佐々木力教授によると「現在の定説では、関(孝和)は一六四二(寛永十九年)先立つ数年前に生まれたとされる。より厳密には、生年未詳とするのが正しい」とあり、1932年の三上義夫の小論を踏襲したものである。

2013-06-23 08:49:32
むらやまこういち💉💉 @murapyon71

ここで面白いのは、郵政省が平成四年十一月四日に発行した記念切手である。文化人切手の第一号として関孝和と与謝野晶子が選ばれた。 http://t.co/2K3VUUGGNG

2013-06-23 08:59:29
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むらやまこういち💉💉 @murapyon71

関孝和の方には「関孝和1642ー1708」と生没年が書かれていて、三上義夫が関孝和の生年を否定してから六十年も経つのに、この時点でいまだに是正されていない。これをみて、佐々木力先生は、日本の行政機構は学問から離れていると嘆いておられたが、出所はどこかの史学者さんじゃなかろうか?

2013-06-23 09:03:05

【お墓の場所について】

むらやまこういち💉💉 @murapyon71

関孝和のお墓について。 関孝和の義父が関五郎左衛門ということはわかっているが、どの関氏かということはわかっていない。孝和の生家、内山家の菩提寺に葬られているところから察すると縁が薄かったのでは?というのが下平和夫先生の推察である。

2013-06-22 23:41:30
むらやまこういち💉💉 @murapyon71

内山家の菩提寺に葬られていることについて、下山先生は「うがち過ぎ」と注意を喚起した上で、猿渡盛厚の『武蔵府中物語』を引いている。概要は、孝和の養子先は、関吉直であろう。ただ吉直には既に吉次という養子があり、孝和は正式な嗣子ではなかっただろう。(つづく

2013-06-23 00:04:22
むらやまこういち💉💉 @murapyon71

孝和の養子新七がお家断絶の際、関の家名に傷が付くのを恐れ、孝和と新七の名を系譜から削除したのだろう。ということらしい。いづれにしても、孝和はやはり養子先の関家の宗子では無く、新七がお家断絶の際に生家の菩提寺にひっそりと葬られたのではなかろうか。

2013-06-23 00:04:29

【関家の断絶について】

むらやまこういち💉💉 @murapyon71

関孝和の養子新七のお家断絶についてもはっきりしていない。『寛政重脩諸家譜』には享保十二年八月五日、『寛政呈譜』には享保二十年八月十七日。下平和夫は『寛政呈譜』の享保二十年が正しいと述べている。御家断絶の原因は通説は「新七の博奕の露見」とあるが、(つづく

2013-06-23 01:36:15
むらやまこういち💉💉 @murapyon71

面白いところでは、弦間耕一『甲州の和算家』に、御金蔵を破られたことによる処罰で御家断絶というのも紹介されている。

2013-06-23 01:36:39
むらやまこういち💉💉 @murapyon71

@komomoJapan 御金蔵破りの典拠が『裏見寒話』なのですが、この著者は関新七と同じ甲府勤番士野田成方なので、弦間さんはかなり自信がおありのようです。

2013-06-23 02:27:10
むらやまこういち💉💉 @murapyon71

@komomoJapan 江戸から勘定奉行松波筑後守、目付松前主馬らが来甲し、一ヶ月調べたが犯人を挙げられなかったので、勤番支配宮崎若狭守をはじめ、原田藤十郎、八木四郎三郎、富士巻半四郎、依田源太郎、関新七郎、永井権十朗らが処罰されたと、内容的にはかなり具体性はあるようですね。

2013-06-23 02:27:19
小桃 @komomoJapan

@murapyon71 おはようございます。業界裏話的なタイトルが良いですね~♪でも勤番士がこんな裏話書いたと世間に知れたら大変ですよね、きっと。

2013-06-23 08:54:25
むらやまこういち💉💉 @murapyon71

@komomoJapan ウィキの「甲府勤番」をみると、甲府勤番というのは素行の悪い人が選ばれて、遠地にとばされるイメージが江戸後期ごろにはあったようですね。勤番士の書いた物としては他には、宮本定正『甲斐迺手振』もあるようで、なかなか貴重な資料なようです。

2013-06-23 09:18:58
むらやまこういち💉💉 @murapyon71

@komomoJapan 江戸時代というのは、けっこう表現の自由があったのかなという感じがしますね^^

2013-06-23 09:22:18

【算法許状の真贋について】

佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

【関孝和05】それでもこれまで、「これは関孝和の自筆!」と言われていた算術の免許状が日本学士院に所蔵されている。しかし、私が見た所、そもそもこれは関の物ではない。『関孝和全集』から該当免許の写真を掲げるが、形状がそもそも不自然。  http://t.co/2WP6nbt6Kd

2013-06-20 20:19:10
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佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

【関孝和06】何が不自然かと言えば本来、免許状は巻物。それがなぜ頭の部分が無傷で巻末だけ鼠に食われたように破れるのか?これは、誰かが人為的に破ったからに違いない。破損箇所には別人の名前が書かれていたはず。関孝和の名前だけ残して彼の物に偽装されたのである。(該当者は恐らく荒木村英)

2013-06-20 20:21:06
むらやまこういち💉💉 @murapyon71

ここが最初の疑問なところで「頭の部分が無傷で巻末だけ鼠に食われたように破れるのか?」とある。ここでいう巻末が写真左、頭が写真右、という意味なら間違いである。以下に日本学士院に所蔵されている「算法許状」の全体写真を載せる。

2013-06-23 13:14:12