お菓子っ子さんの「江戸時代の官僚制」感想

タイトル通り。それに関わる流れも少し。
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お菓子っ子 @sweets_street

「江戸時代の官僚制」http://t.co/eVAVeWrP5g 江戸幕府の官僚制度が家康から家光の時代にかけて形成されていく様子、江戸幕府の官僚制の特色、1660年代の江戸幕府の官僚組織の分析などを描写することで、江戸時代の官僚制の実態に迫ります(続

2013-08-23 21:51:16
お菓子っ子 @sweets_street

受)第一章では家康の腹心だった大久保長安と八代吉宗に仕えた敏腕官僚大岡越前守忠相の二人を描くことで、官僚制が未熟で個人の力量に頼った政権運営が行われていた家康の時代と、官僚制が整備されていかに優秀な官僚でも組織のパーツであるという吉宗の時代の違いが浮かび上がってきます(続

2013-08-23 21:55:47
お菓子っ子 @sweets_street

受)第ニ章では家康や秀忠が「出頭人」と言われる側近の能力に依存した政権運営を行っていたこと、秀忠から政権を引き継いだ家光が土井利勝を始めとする秀忠の出頭人の力を巧妙に削いで、六人衆と言われる松平信綱などを自分の出頭人として引き立てて、側近政治を進めていく過程が描かれます(続

2013-08-23 22:08:19
お菓子っ子 @sweets_street

受)第三章では権力を自分のもとに集中することに成功した家光が老中と六人衆に集中していた権限を分割して、寺社奉行や勘定奉行、大目付などの幹部ポストを新設して、それらの幹部を将軍が統括する独裁制を確立しますが、病気にかかって政務がとれなくなってしまいます(続

2013-08-23 22:17:59
お菓子っ子 @sweets_street

受)家光が病気にかかっている間、最高責任者を欠いた幕政は停滞してしまいました。家光はその反省から独裁を断念し、老中と若年寄に役方(行政)と番方(軍事)の幹部達を統括させて、政治を任せることにします。こうして現在知られているような幕府の官僚機構の形が出来上がりました(続

2013-08-23 22:22:25
お菓子っ子 @sweets_street

受)第三章の後半では幕府官僚の初任ポストと家柄の相関関係、朝廷の官位と官僚ポストのランクを対応させることによる家柄とは別基準の幕府官僚の格付け、役料と言われる職務手当をつけることで石高=家柄が低い人物でも出世を可能にしたシステムといった人事上の特徴が描かれます(続

2013-08-23 22:33:06
お菓子っ子 @sweets_street

受)また、複数担当者によって権限を分散することで暴走を防ぐ合議制と、月ごとに担当者が交代することで担当者の負担を減らす月番制という江戸幕府の官僚制の特色、それらを補完するための歴代将軍の工夫などの説明もあります。その中でも八代将軍吉宗の行った法典整備は出色です(続

2013-08-23 22:37:30
お菓子っ子 @sweets_street

受)第四章では寛文四年(1664年)に旗本だった3000人以上の経歴を統計的に分析することで、江戸幕府の官僚組織の実態に迫ります。当時の旗本の中で一番多いのは200石から400石の間の人です。400石から600石の間の人もそこそこ多いです。600石を超えると急に少なくなります(続

2013-08-23 22:47:11
お菓子っ子 @sweets_street

受)旗本が所属する部署の中で最も多くの人員を抱えているのは将軍親衛隊ともいうべき大番。その次はやはり将軍親衛隊である書院番や小姓組。それに次ぐのが同じく将軍親衛隊の小十人組と新番ですが、大番や書院番や小姓組と比べると所属人員はかなり少ないです(続

2013-08-23 22:54:16
お菓子っ子 @sweets_street

受)以下は行政系の部署や将軍の身辺の世話をする部署、御家人部隊の指揮官などが続きますが、将軍の身辺の世話をする部署の数の多さが目につきます。当時においては将軍の家政部署は行政部署より圧倒的に大きな比重を占めていたようです。19世紀になると行政部署の所属人員は飛躍的に増えます(続

2013-08-23 23:00:33
お菓子っ子 @sweets_street

受)寛文四年(1664年)と弘化二年(1845年)の幕府の組織を比べると、行政や司法を担当する部署、儀礼を担当する部署、将軍の身辺に仕えて秘書や雑務を担当する部署などの所属人員がかなり増えていて、二世紀の間に幕府の政治機構の整備が飛躍的に進んだことがわかります(続

2013-08-23 23:09:02
お菓子っ子 @sweets_street

受)旗本が就任できる幕府の要職(親衛部隊の指揮官や重要な奉行職、将軍直属の要職など)に就任しているのは書院番や小姓組の番士を初任職とする人がほとんどで、大番や小十人の番士、代官や勘定などの行政部門の職を初任とする人はほとんどいません(続

2013-08-24 00:35:52
お菓子っ子 @sweets_street

受)17世紀半ばの江戸幕府の組織では書院番や小姓組の番士がキャリア、大番や小十人の番士、代官や勘定などの行政職はノンキャリアに相当するようです。親衛隊員がキャリア組であるというのは、古代中国や中世イスラーム世界と似ていて面白いですね(続

2013-08-24 00:39:44
お菓子っ子 @sweets_street

受)江戸幕府の官僚といえば勘定奉行や江戸町奉行などの奉行職、大目付などの監察職などのイメージが強いですが、大番や書院番、小姓組、小十人、新番などの親衛部隊の番頭、組頭といった指揮官ポストも出世コースに組み込まれていて、軍事系の職も江戸幕府の職制では花形ポストです(続

2013-08-24 00:47:30
お菓子っ子 @sweets_street

受)旗本の初任職は家柄で決まり書院番と小姓組の番士を初任とする家が幹部候補なのですが、家柄は固定的というわけではありません。大番を初任とするノンキャリアの家の子孫の約二割が家柄を上昇させて、書院番や小姓組を初任とする幹部候補を出しています(続

2013-08-24 00:53:21
お菓子っ子 @sweets_street

受)旗本の下には御家人という旗本の官僚の下役を輩出する階層があるのですが、この階層から旗本の家に昇格した家も少なくありません。御家人から努力を重ねて政権首脳の勘定奉行に上り詰めた人もいて、狭き門ではありますが江戸幕府の人事は努力が報われる仕組みであるようです(続

2013-08-24 01:06:18
お菓子っ子 @sweets_street

受)旗本から大名に昇格する家もあります。そういう家の多くは千石以上の知行を取る名門旗本ですが、中にはノンキャリアの大番から身を起こして大名になった人もいます(続

2013-08-24 01:15:15
お菓子っ子 @sweets_street

受)将軍の身辺に仕える小姓から大番や書院番、小姓組などの親衛部隊の指揮官を歴任して大名になる人、数千石取りの名門旗本から親衛部隊の指揮官を歴任して大名になる人が多いですが、大番や書院番の番士から通常コースでコツコツ昇進して大名になる人もごく稀にいます(続

2013-08-24 01:19:18
お菓子っ子 @sweets_street

受)幕府官僚の世界は家柄で初任職が決まっていて、キャリア組とノンキャリア組では出世に格差があるものの、努力次第で本来の家柄以上の出世をすること、家柄を上げることも可能であり、イメージよりはずっと風通しが良い世界であるようです(続

2013-08-24 01:23:18
お菓子っ子 @sweets_street

受)また、官僚の独走を防ぐための複数担当者による合議制、業務の遅延を防ぐための月番制などが江戸幕府の官僚組織の基本でしたが、これらの制度の「担当者の責任がうやむやになる」という欠点を防ぐための修正措置もしばしば講じられました(続

2013-08-24 01:30:30
お菓子っ子 @sweets_street

受)この時代の役人は経費を自腹で負担することが多いため、知行(石高)が低い=収入が少ない人は出世すると経費負担に耐えられなくなります。そのため、昇進に伴って知行を加増したり、役料と呼ばれる手当をつけたりして、身分が低くて収入が少ない人が高いポストに就けるような配慮もありました(続

2013-08-24 01:35:33
お菓子っ子 @sweets_street

受)家光が幕府官僚制の原型を作った、太平の世でも軍事系のポストが出世コースに組み込まれていた、家柄は絶対的なものではなかった、官僚制の弊害を防ぐ努力がなされていたなど、興味深いことを多く学べました。丹念に基礎研究を重ねて論を導き出す史学の醍醐味を堪能できる本でした(終

2013-08-24 01:45:33
神無月久音 @k_hisane

おお、著者は人物叢書の「徳川家光」も書いておられる藤田先生で砂。そちらの方でも、江戸幕府の官僚制度の成立の経緯について、かなり項が割かれてて、面白かったですよ。@sweets_street 「江戸時代の官僚制」http://t.co/pr5njofICX

2013-08-24 02:20:43
お菓子っ子 @sweets_street

@k_hisane そちらの方には秀忠から引き継いだ年寄の排除、六人衆の抜擢などがもっと細かく書かれているのでしょうね

2013-08-24 02:27:01
神無月久音 @k_hisane

しかもそれが一度や二度ではなく、おまけに毎度死にかける有様でしたしね。そして病気に加えて、早逝によって生まれた幼少の将軍が後を継ぐという状況が、幕府官僚組織の揺籃だったのだなと。 @sweets_street 家光が病気にかかっている間、最高責任者を欠いた幕政は停滞

2013-08-24 02:28:06