京都国立近代美術館『映画をめぐる美術』アーティスト・トーク田中功起についての感想の一部
@kktnk というような議論は何十年も前からされているが、状況は何も変わらないのではないかと思います。その中で父=作家としての視線は象徴的なものであって、その姿は見せることはありません。制度=ルールそのものが父の存在を感じさせることで充分。見せないことが効果を最大限に発揮する。
2013-09-13 07:17:26@kktnk しかし、田中さんはあえてそれらを意識的にカメラに映るようにしたのではないかと勝手に解釈しました。映像の参加者はいろんな意味で拘束された状態であって、こうやって田中さんとツイッターという制約=拘束された場所で衆目に晒されながら会話を交わすことも同じように、
2013-09-13 07:17:50@kktnk その視線を意識したパフォーマティブなやり取りであって、僕はそういった周りの期待する振る舞いを裏切りたいと強く思います。また田中さんがトークのときに話されたように、仲間内においても意見を封殺する言動には警戒をしなければいけません。
2013-09-13 07:18:08@kktnk デュシャンは作品が制度によって成立するものだと暴露しました。だからといって制度に代わって無条件にアーティストを作品の担保にすべきではないと思います。そもそもアーティストとは何か。美術館で展覧会をしたからといってアーティストといえるのか。再帰的な問いの必要性です。
2013-09-13 07:18:27@kktnk 作家だけが作品の外部であるといえません。作家の身体もそのルールに縛られていることを意識しなければならない。作家がルールに従属されている状態、あるいは巻き込まれるというのはまさにヒッチコックの主人公であり、装置が自動的に駆動するのはカフカのような世界を思い出します。
2013-09-13 07:18:49@kktnk もちろん鑑賞者においても例外ではない。作品の外から傍観するのではなく、その意志に関係なく作品のルールに参加させられている。もし作家も鑑賞者も同じ地平に立つならば、ケージが作曲家は聴衆の立場に移ると言うように作家も鑑賞者となるべきではないでしょうか。最初の鑑賞者として
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