京都国立近代美術館『映画をめぐる美術』アーティスト・トーク田中功起についての感想の一部
【予定】明後日はこれに行くつもり。必ず!『映画をめぐる美術』京都国立近代美術館2013年9月7日(土)午後2時(連続アーティスト・トーク)『ドミニク・ゴンザレス=フォルステル、田中功起、アナ・トーフ』この日美術館は午後8時まで開館 http://t.co/lD9TsoSzxe
2013-09-05 21:21:49【京都国立近代美術館】 #MoMAK 「映画をめぐる美術」連続アーティスト・トーク(ドミニク・ゴンザレス=フォルステル、田中功起、アナ・トーフ)9月7日(土)午後2時より(午後1時からインフォメーションにて先着70名に整理券を配布)※都合によりダヤニータ・シンは参加中止
2013-09-06 12:20:40#MoMAK 「映画をめぐる美術―マルセル・ブロータースから始める」展幕開け、今日は開会式。明日は9月7日(土)はドミニク・ゴンザレス=フォルステル、田中功起、アナ・トーフによる連続アーティスト・トークが午後2時からあります。詳細は http://t.co/Uvxh3OGIbh
2013-09-06 15:48:07明日は、京近美で作品の話をします。ぼくの作品はわりとわかりやすいと思うけど、他の人のものは難しいものもあるのでこの機会に聞いてみるのもいいと思います。ちなみにぼくのそれぞれの作品のほとんどはもうすでにvimeoで見れるものばかりです。「コーヒーと旅」だけ展示でしか見れません。
2013-09-06 17:29:42今日は、トークに来ていただきありがとうございました、ってもちろんぼく目的でないひとも多かっただろうけど、三者三様、アナとドミニクのトークも面白かったです。というわけで京都はしばらく離れます。またそのうち!
2013-09-07 18:09:24京都国立近代美術館『映画をめぐる美術』の関連企画であるアーティスト・トーク田中功起さんの話を聞きに行ったのでそのときの感想をブログに書きました。もう分割するのは面倒です。たいした文章ではないので興味のある方だけ読んでください。 http://t.co/JVyCk9MkDL
2013-09-08 20:31:56【京都国立近代美術館『映画をめぐる美術』アーティスト・トーク田中功起についての感想の一部】 『a poem written by 5 poets at once』の映像をみていて気になったのは、映像の中に田中さんの姿が写しだされていることだ。自分の姿を隠そうとはしない。
2013-09-10 23:22:53編集でカットすることはなく、一部が見切れている状態をそのままにしておく。どちらかと言えば、あえて映るようにカメラを回しているようにみえる。明らかに意図的に自身の姿が写しだされている。ヒッチコックが自分の映画に監督自らが登場するように作家本人の姿を映像に映し出す。
2013-09-10 23:23:16映像の中では余分な要素であるにもかかわらず、あえてその姿を登場させるのは、まるでこの映像がフィクションでしかないと警告しているようにみえる。詩人たちも映像のなかで演劇的に振る舞う。演劇的な振る舞いに関してジジェクはヒッチコック論の中で
2013-09-10 23:23:51「男と女が、まったく偶然から、あるいは外的な強制によって、無理やりくっつけられる」ことがあると指摘する。男と女は本当の恋人のように見せかける。抱擁したり、キスをしたり記号的な振る舞いはいつしか本当の恋に発展をする。偽装としての恋人たちが最終的に本当の恋に落ちたように、
2013-09-10 23:24:13田中作品の映像の詩人たちに恋が成就することはあるのだろうか。フーコーがベラスケスの「ラスメニーナス」を分析したようにその視線の交錯が田中さんの映像作品においても見られ、鑑賞者の身体が主体と客体に引き裂かれ重層化されてる。映像の中の詩人それぞれに感情移入することでうみだされる視線。
2013-09-10 23:25:16少し引いて詩人たちがひとつの詩を協働で制作している状況を俯瞰した視線。その状況の成り行きを沈黙しながら見つめる視線。この映像を見る鑑賞者の視線はカメラが切り替わるごとにズラされていく。
2013-09-10 23:25:25生徒を後ろから見つめつ教師の視線と同じように、後ろから見つめる作家の視線は権威的なものを感じる。参加者の詩人たちは見られることを意識しながら、作家の監視下(父の視線)において詩作をすることを強いられる。詩人たちは個人で詩を考えるときには、きっと詩を作ることだけに没頭するだろう。
2013-09-10 23:25:33もし複数の詩人の間で作る場合には相手の詩人の思考(視線)を考慮(協力する、相手を出し抜くなど)に入れながら、詩を作ることを取り組むだろう。しかし、この映像作品においては、作家の視線ともう一つの眼差しである鑑賞者の視線も入り込むことになる。
2013-09-10 23:25:45詩人は複数の視線による求めに対して期待通りに応えようと自己の振る舞いを決めていこうとするだろう。このなかで詩人は複数のパノプティコン的視線のもとにおいて拘束された状態でパフォーマティブに詩作をすることを強いられる。そこには「監視する眼」と「見られる主体」が存在する。
2013-09-10 23:26:54また視線の違和感は作品内だけで完結するのではなく、鑑賞者に対しても向けられる。詩人たちの鑑賞者の期待に応えるような演劇的な振る舞いに鑑賞者の視線を逆照射させ、視線そのものを意識化させる。映像にときおり映るカメラの姿は、
2013-09-10 23:27:06カメラを通して詩人たちを見ていることを意識化させ、それは夢のなかで自分の姿を見るような感覚と同じだ。そして作家の視線が詩人の行動を見ているだけでなく、詩人を見ている鑑賞者を含めた全体を父の眼で俯瞰している。
2013-09-10 23:27:10作品が鑑賞者の視線によって成立するのではない。作品からの視線が鑑賞者としての振る舞いを求められている。確かに時間的にも空間的にも作品それ自体は鑑賞者の視線とかかわりなく自律しているということは疑えない。
2013-09-10 23:27:59自律しているからこそその距離が意識化され、作品との間の余白に拘束された主体性があらわれる。 (感想の全文は→http://t.co/4GmYgKSAFV
2013-09-10 23:29:22ヴェネツィア・ビエンナーレ、身びいきでなく、今回の日本館の展示はよかった。重層的だけど開放感もあって。あのめんどうな空間を逆手にとって多種多様なアイテムを置いてゆくやりかたには、ある種の狡知さえ感じられた。田中功起の展示としても、ぼくの知るかぎりこれまでで最良のもののひとつ。
2013-09-11 14:48:11@tkyk_insensatez 林さんに見ていただけてよかったです。よくも悪くもやりきれたものだったので、どういう反応があっても甘んじて受け入れますが、どうやら一部の国内美術館学芸員にはとにかく評判悪く、「日本人には受け入れがたい」という一般化された批判をいただいたので。
2013-09-11 15:04:14@RC_Dialogue エゴサーチで見つけました。感想ありがとうございます。一点だけ、お話の筋に乗っかれば、映像の中で作者の位置+その枠組みを壊しかねない発言が参加者から発せられます。つまり作者に関与してもらおうという発言です。でもそれは別の参加者によって制止されてしまいます。
2013-09-11 15:08:53@rob_art 正確には「たち」のようです。ぼくも具体的にはだれか知りません。でもオープニング周りで訪れた日本からのプロフェッショナルな人たちにはおおむね評判が悪かった/反応しにくいものであったようです。もちろんそうでない反応もありましたが。
2013-09-11 15:12:23@rob_art はい、ぜひ現場で確認してください。賞があるので批判しにくくなっているというのもあると思いますが、真っ当な批判はほんとうは聞いてみたいんですけれども。
2013-09-11 15:16:28@RC_Dialogue あと、もちろんぼくが作ったルールだけれども、そのルールにそれを作ったぼく自身も従属されているという見方もできるかなって思います。空間を支配しているのは作者(父)ではなく、ルールであり、そのオーバードライブがある。というような。
2013-09-11 15:21:54