「剣豪将軍」足利義輝は本当に剣豪だったのか?
発端はこちらでの話
「武勇」と言うと自ら大勢の敵を切り倒す強さ、武術の絶技をイメージする人が多い気がするのですが、やはり小説やゲームの影響なのでしょうか(´・ω・`)?
2013-11-07 20:28:43確かに講談に出てくる強い武将はほとんどが武芸の達人ですね。バトル漫画のようにわかりやすく強さを見せられるからでしょうか? RT @Stella_NF 講談や芝居が庶民の娯楽だった時代からだと思います。
2013-11-07 20:33:02戦争が身近だったから、「武勇の大将」と「武勇の士」の違いも良くわかっていたのでしょうね RT @1059kanri 戦国時代の人なんかは、雑兵や葉武者の武勇と、部将、大将の武勇を明らかに分けて考えていますね
2013-11-07 20:36:52「剣豪将軍」足利義輝、その評価について
そういや足利義輝について、永禄の変の時、自ら太刀を振るって戦い、討死したことを、京の人間が「将軍は雑兵の技を好まれたが、その死に様もまるで雑兵のようだ」と噂した、なんて話があったと雑兵関連の資料にあったのですが、出典が記載無くて、うーむむむ。
2013-11-07 21:57:47まあ、義輝が武芸に優れたとする当時の史料もほとんどないですし喃。せいぜいフロイスの日本史くらいで、それも「とても武勇すぐれ、勇気ある人だった」とあるのみで、武芸の達者だったとは書いてませんし喃。有名な「刀突き立てて切り捨て三昧」の話も、かなり後の記述なんで、創作臭強めですし。
2013-11-07 22:02:24一之太刀を伝授された云々ってのも、出典が甲陽軍鑑なんで結構微妙な感じですし喃。本朝武芸小伝でも、卜伝から唯一伝授されたのが北畠具教とされてたりしてるんで、正直、最期が派手な分、かなり話が盛られてるなーと思うところ。時代が過ぎるにつれ、話も派手になってますし。
2013-11-07 22:05:48@k_hisane 足利義輝暗殺事件のあと、早々に幕府奉公衆や奉行衆が三好長逸のところに挨拶に行っているんですよね。どうも幕府すら掌握できていなかったのが義輝の実態だった模様で
2013-11-07 22:04:25将軍が暗殺されるのも別に初めてでもないですし、そんなもんだろうなーと。@1059kanri 足利義輝暗殺事件のあと、早々に幕府奉公衆や奉行衆が三好長逸のところに挨拶に行っているんですよね。どうも幕府すら掌握できていなかったのが義輝の実態だった模様で
2013-11-07 22:08:20義輝の注目のされ方が「剣豪将軍」であることが問題なんでしょうねー。そういうのに釣られる人が、当時の畿内における三好家の立場に興味を持つことは少ないでしょうし。@1059kanri 義輝暗殺に関しては、むしろ義輝のほうが悪い、という感覚が京都周辺にはあった感じもしますねw
2013-11-07 22:16:34そういえば『信長公記』では、太田牛一は将軍義輝暗殺について、「将軍が天下の執政である三好長慶に対して『御謀反』を企てたので、頃だれたのだ」としていますね。一般的にもそんな認識だったのでしょうね
2013-11-07 22:15:11将軍が形式上の配下に対し「御謀反」した、というのが当時の状況や二人の関係性を表してます喃。@1059kanri 『信長公記』では、太田牛一は将軍義輝暗殺について、「将軍が天下の執政である三好長慶に対して『御謀反』を企てたので、頃だれたのだ」としていますね
2013-11-07 22:57:07正直、義輝については、中二力溢れるキャラだったこともあって色々調べてみたのですけど、調べるほどに、「そもそも本当に剣豪かどうか疑わしい」という疑問が強まっていくので、剣豪将軍という評価を聞くたびに、なんかモニョるものが。
2013-11-07 22:13:46前に話に出た足利義輝の死に様を雑兵のようだと書いた本について、探ってたら出てきたので紹介。【【絵解き】戦国武士の合戦心得 (講談社文庫) 東郷 隆】 http://t.co/lVPxMXyOhQ 「雑兵物語」かと思ったけど違いましたな。
2013-11-11 02:58:15で、件の義輝の最後についての記述はこんな感じ。『打刀を使った「兵法」という下卒技が流行し、一五〇〇年代の半ばには、権威あるはずの足利将軍まで、この技にかぶれた。第十三代将軍の義輝は塚原卜伝らに学んで剣豪将軍とまで謳われている(続く)
2013-11-11 03:00:57(続き)しかし、永禄八年、彼を恐れた三好三人衆と松永久秀に夜討ちをかけられた。京都二条の館に火をかけられた義輝は、炎を背にして敵を次々に切った。園や利方も、屋敷の畳に足利家伝来の名刀を何本も刺し、堅物に当たって刀が折れると惜しげもなく取り替えるという雑兵式の戦闘方法だった(続く)
2013-11-11 03:03:36(続き)攻めあぐねた三好・松永の兵は、四方かた戸板で将軍を押し囲み、人数を頼んで引き倒すと、戸の間から刀を差し入れて蛙でも殺すようにめった刺しにした。その死に様も足軽のようだ、と京の人々は噂したという』
2013-11-11 03:05:44前にも書いた通り、この部分について出典が書いてないし、状況描写は足利季世記か日本外史辺りから取ってきたと思われるので、こりゃ足軽云々ってのは筆者が書いたものっぽいで砂。しかし、大暴れ自体は書いてあるものの、「(兵法に)かぶれた」とか「蛙でも殺すように」とか、結構表現が辛辣です喃。
2013-11-11 03:13:45史料から見る足利義輝-『剣豪将軍』の虚実
つか、永禄の変(というか義輝の最期)について、同時代の記録と言えるものってフロイスの手紙と言継卿記以外にもある筈なのに、なんで目立たないんじゃろか。他の貴族やら僧侶なんかの日記とかも探せばありそうです喃。
2013-11-11 03:19:14