美術批評家が、なぜ村上隆については「口を噤んでしまう」のか?
村上隆特集の美術手帖11月号を図書館で見た。いやぁ~ヒジョーに良くできてるねぇ~と感心する。ヒジョーーーーーに良くできたカイカイキキの公式企業パンフレットだw
2010-10-20 22:39:19「ヒジョーに良くできた公式企業パンフを美術手帖誌上で実現してしまうこと」がそのまま村上隆の芸術を構成する一つになってしまうところが村上隆というアーティストの厄介なところなのだが、それにしても外側からの視点で村上の芸術を相対化させる論考が一本も載ってないのはやはり「異常」だ。
2010-10-20 22:42:12「外部」からの論考を載せないことが企画を受け入れる条件だったのか、それとも単に書く人材がいなかったのか・・・。そーいえば先日見に行った美術犬主催の「批評!!」シンポジウムでも村上隆について美術批評が「誰も敢えて触れない(触れられない)」現状が話題の一つに上っていた。
2010-10-20 22:44:07なぜ「現代アート」を論じる専門家であるはずの美術批評家が、世の中的にはまず文句なくもっとも有名な「現代アート」である村上隆については「口を噤んでしまう」のか? 少し長くなるかもしれないが俺的に(好き勝手な)考察をしてみる。
2010-10-20 22:47:07以前にも少し書いたが、俺は村上隆のやっていることは煎じ詰めれば「デュシャンの便器」と変わらないと思っている。つまりマガイモノ(便器)を本物(芸術)に見せかけることで「芸術」自体の成り立ちの「マガイモノさ」を露わにするという構造批評を内在化させたメタ的な作品なのだ。
2010-10-20 22:54:02村上隆が作品のモチーフに徹底してB級キッチュなイメージを用いるのも、その反面作品の商品的な「仕上がり」は徹底して高品質に作り込むのも全てそのため(つまりマガイモノ(便器)を本物(芸術)に見せかけるため)だと考えれば非常に理解しやすい。
2010-10-20 22:55:22デュシャンはサインを入れて展覧会に出品するだけで便器を「芸術」へと変換させることができたが、それから一世紀近く経った現代においてそれは遥かに複雑化している。村上隆が文脈からなにからなにまでその構造ごと自力で全部仕立て上げなければならないのはその為である。
2010-10-20 22:57:27村上隆がことあるごとに(今回のBTの表紙を見れば分かるように)「芸術」を連呼し強調するのは、それがホントは「芸術」でないからである。でもそのことによって「本当の芸術」も実は「マガイモノ(便器)」であるということが露わになるその構造が、おそらく批評を困難にさせるのだろう。
2010-10-20 22:58:30だから村上隆の作品に対して「正面から向き合い」美学的な観点から難癖をつけてみても、それは「便器」に対してアレコレ言ってるのと同じで、傍から見るとマヌケでしかない。つまり村上隆の作品を「芸術」として扱った瞬間から、既に評者は村上の手中にいるのである。
2010-10-20 22:59:45同じく村上隆の「言っていること(たとえば「スーパフラット」とか)」をアレコレ論難するのも、既にその時点で村上の術中に嵌っていることになる。それは「便器」を粉飾する要素の一つにすぎず、それを受け入れた時点で既に「便器」を評しているのと同じ態を晒してしまうからだ。
2010-10-20 23:01:53かと言って「便器」であることを指摘し「芸術じゃない!」と批判することも不可能だ。なぜならそれは「芸術」そのものを否定することにも繋がるから。「王様は裸だ!」と叫んだ瞬間、実はみんな裸だと気付くような、村上の作品は(あるいは「現代アート」は)そーゆー構造になっている。
2010-10-20 23:03:58村上隆がことあるごとに「実践」と「成功」を強調するのは当然である。村上の芸術自体は「実践」と「成功」によってのみ成立するのだから。作品や所論について少々論難されても、「成功」を主張すれば簡単に論破できる。「詐称」は成功していれば、その手段の矛盾や不備など何の問題にもならないのだ。
2010-10-20 23:06:57そして批評が「見て見ぬふり」をしてるうちに、村上隆の「成功」はどんどん「完成」に近付きつつある。先の「批評!!」シンポジウムでも、そろそろ批評の側が村上隆に対して応えなければいけないんじゃないかといった話が出ていたが、果たしてそれは本当に為されるのだろうか?
2010-10-20 23:08:32もし為されるのだとすれば、それは今ある「アート」そのものをリセットしてしまうようなものでない限り、有効たり得ないだろう。そして(ひょっとすると)村上隆がほんとうに待っているのは、それなのではないだろうか? 設えは全部俺が拵えたんだから、さぁいつでもリセットしてみろ、と。
2010-10-20 23:10:10そんな上から目線な内容がシンポで交わされていたんですか? RT @drawinghell (前略)先の「批評!!」シンポジウムでも、そろそろ批評の側が村上隆に対して応えなければいけないんじゃないかといった話が出ていたが、果たしてそれは本当に為されるのだろうか?
2010-10-20 23:11:12個人的にはもうイーカゲンここらで一度「アート」をリセットして、根こそぎ全部ちゃらにしてしまってもいいんじゃないかと思っているのだが、奇しくも村上隆特集の今月号から美術手帖で連載の始まった椹木野衣の「後美術論」が「それ」になるのかどーかは・・・読んでないからワカラナイw
2010-10-20 23:12:41@nukisuke 僕の書き方のせいかもしれないけど「上から目線」・・・って感じではなかったですね。どっちかというと「困ったなー」みたいな感じの方が印象強かったかもw
2010-10-20 23:17:31@drawinghell うーん、実際シンポ見ていないからなんとも言えないですけど、「困ったなー」でもやっぱり対岸の火事ってかんじですよね。そのスタンスであり続ける限り、批評は外に向かっていかないし、退屈だと思うんです。
2010-10-20 23:22:35@nukisuke 「対岸の火事」でもなくなってきたから「困ってる」みたいでしたが。例えば現代アートについての本を出す条件として「村上隆についていいか悪いかハッキリとした評価を入れない限り出さない!」と出版社から言い渡されたとかw
2010-10-20 23:28:48@drawinghell 無理な要求を強いられて、了承できないならファックと言えばいいし、どうしても本を出したいなら唯々諾々と従って、別の戦略を練ったほうがいいと思います。いずれにせよ総じて批評側の強度と粘り強さが欠けていると思うんです。
2010-10-20 23:40:08.@nukisuke いや、個別の対応がどうこうとか言うよりも、むしろこの話のキモは出版社からそんな要求が出るほど村上隆について批評の側が「口を噤んでいる」ということなんです。「強度と粘り強さ」以前に、じゃあいったい誰が書いているのか?、と。
2010-10-21 20:56:34.@nukisuke 論考が一本も載ってない(外側からの視点が一切排除されている)今回の美術手帖の特集自体が充分スギルほど“変”なのに、それがあんまり“変”に思われないほど状況はイビツだということなのでしょう。
2010-10-21 20:58:01.@nukisuke 「あんなの批評の対象じゃない」=「書かない」というのは正当な態度だけど、その「批評の対象じゃない」理由を書かないことにはもードーシヨーモナイよーな状況におそらく既になっている。批評だって当然読者あってのものだし、読者は「それ」こそが一番知りたいのだから。
2010-10-21 21:00:14東京国立博物館「東大寺大仏」、残念ながら大仏本体は奈良から来てないが(当たり前だw)、相変わらず笑っちゃうほど良く出来た最近の東博の寺モノ展ではお馴染みのどこのアミューズメント施設かと思うような大規模展示は、エンターテイメント展覧会の最前線を突っ走っていて、やっぱり笑っちゃったw
2010-10-22 21:27:13(東大寺大仏)もはやこれは「展覧会で仏像を見る」という体験とは別の位相へと移行しているような気さえする。仏閣から美術館・博物館へと仏像を「見る」場所は近代化とともに移動したが、それがこの大規模な「アミューズメント型展示」によって、さらに新たな次元に突入しつつあるのでは?と。
2010-10-22 21:31:29