ハイデガーの和訳文のお勉強メモ
- sunamajiri
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その話が有効なのは、その話をすると頭のいい子と悪い子を選別できるからなのだ。だから日本の国語は現象学しかしたがらないようになってしまった。(^-^)/ @Oygnino 現象学的何とかについて延々喋りたい気分だワ!
2014-04-15 21:27:17ハイデガーの「存在と時間」の挫折というのは、そういう本来的な言い方をしようとすると、できなくなる、ということに尽きるのだ。実存カテゴリーを分節して、延長カテゴリーの言い方をしないように、言語実験しているようなものだが、できるわけがない。しかしそのようにカテゴリーというのは必然的。
2014-04-15 01:27:09ハイデガーの実存カテゴリーは必然的だからね。たとえば「地図上では遠いが近く感じる」という言い方が出来ない。「距離感」では認識であり、地図を測量する数学と同じコギトの延長になってしまう。それではスコラを読まないことであるコギトが、実体の両義性を隠蔽してしまう、とかね。@TKDOMO
2014-04-15 01:12:56ハイデガーが、デカルトのコギトを論じていて、実存カテゴリーを分節するわけだけど、それでは別のカテゴリーを探せばいいと中国の漢字研究したりする。斜に構えすぎなわけだが、それで系譜学になるのかね? コギトというのは本を読まないことなのにね。@TKDOMO 「言葉と物」を失敗だったと~
2014-04-15 00:56:46フーコーってハイデガー誤読してるよね、中国の漢字も捉え損なったらしいが。(^-^)/ @TKDOMO (延長を)「取り込む」こと全般に対して遊びを対置したとこが稀有な思想かも。晩年?はフーコーとも照応させて「自己への配慮」ってハイデガーの「世界への配慮」とペアなんだろね…。
2014-04-15 00:38:57マルクスが労働を発見できたのも、デカルトがスコラ本が大嫌いで、それをコギトといったのに、ライプニッツが神の必然性に戻し、そういう神でヘーゲルが自然を人間に「取り込む」仕方を、マルクスが労働といったのだろうが、そんなものは遊びにすぎないと。そんなとこかな?(^-^)/@TKDOMO
2014-04-14 23:56:32遊びに転回できない真面目な労働は迷惑極まりないからね。それなのに、今の人達は、自分が頑張らないのが行けないと萎縮する。吉本の批判はそれよね。@TKDOMO 13歳は2度あるか?で「一生懸命働くな」「それは他人にも迷惑」みたいなことを言ってるのが勇気づけてくれますw 吉本隆明爺
2014-04-14 23:54:07この労働から遊びへの転回というのを失ったら日本も終わりだな。超越論的転回、言語論的転回、解釈学的転回の次はコミュニケーション論的転回だ、なんてアホなこと言ってる人がいるんだが、ちゃうねん、労働の遊びへの転回でいいねん、とかいうのが日本の吉本だからな。吉本興業じゃない方(^-^)/
2014-04-14 21:13:49お腹が空いてきたのだが、じつは労働より遊びだ、遊びは言葉遊びより音楽だ、音楽はアフリカだとなるのだが、そんなこといってると今度はお腹が空いてくる、という円環運動があってね。まあそれ自体労働というより遊びみたいなものだが。だいたいライプニッツがデカルトを狭義に解釈するからいけない。
2014-04-14 20:58:26それで、スコラみたいに本読んだり、本読むことでもある労働したって自然が人間に組み込まれるわけがない。そんなもん延長だろ?となって、遊びだ遊び、言語も音楽だ、音楽はアフリカだ、となるのにはジョン・ケージというよりジャズを感じたw(^-^)/ @TKDOMO
2014-04-14 20:55:25手許にハイイメージ論がないのだが、デカルトのように本読むの嫌い宣言で、あれ俺ってすごいこと言っちゃった?ってのがコギトとして、ライプニッツが神の必然性に戻すと、自然が人間に組み込まれ、マルクスは労働が自然を人間に組み込む。でも吉本さんは遊びじゃないの?という。@TKDOMO
2014-04-14 20:49:04ハイイメージ論2か。神が人間に自然を組み込むのは労働でなく遊びだろ、というマルクス批判だったっけ。吉本の遊びは世代タイミング的に柄谷は真似できないよね。それでデリダがハイデガーのズッコケのように、柄谷もずっこける。http://t.co/UfhN67jLXW @TKDOMO
2014-04-14 20:45:47@sunamajiri 吉本はライプニッツを読むのに、ヘーゲルが幾何学に生命と変化(弁証法)を導入しようとしたのを突破口にしてるみたい。現実には対象と主体の間で二重化(反復される)する過程そのものをたどっていくヘーゲルのゆらぎに人間の認識の自然過程を見出してると思う。
2014-04-14 11:52:37詩は音楽のように、音楽の出来ない人にも聴こえるからね。音楽がそこはかとなく聴こえてるだけで音楽のできない人が、評論を詩のようにさせたがるように聴こえるのだが、ハイデガーにしろ柄谷にしろ、吉本のように詩は書けないんだろうね。あれは観念なのかね? @TKDOMO
2014-04-14 00:22:49感覚を欺く神をデカルトが追い払っても、その視野の有限さが無限の観念を要請するからね。柄谷のあの書き方は、ハイデガーもそうだが、詩作とは程遠い、詩作への引け目のような語り方よね。@TKDOMO おお、観念からの転回のための詩だったか!いま気がついたw
2014-04-14 00:07:09受験生に「神」は観念ではないから、とハイデガーhttps://t.co/2w0FIG3zAl のように教えると、中には「じゃあ神って何ですか?天皇ですか?」と躓く子がいるんです。各自の観念で文が読めなくなる、というのはそういうことです。@Shin_Kishida
2014-04-13 22:09:26@sunamajiri よく分かります。観念的な私は語学が苦手(下手糞)でしたが、言語が共同体におけるツールであり生きものであると分かって、最近楽しいです。
2014-04-13 21:59:34全然学習してないですよ。当たり前というだけです。言語を観念と捉えたら、他人の心は分からなくなる。だから観念=論が要請される。しかし、言語は意味=共同体に転回しているのだから、観念論が不要というだけです。その乗り越えが詩ですよ。@Shin_Kishida よく学習されていますね
2014-04-13 21:44:18渡辺さんが倭語の「ものごと」の分節https://t.co/2Cv7AAa2QG を話してましたが、きのう紹介したイアン・ハッキングの英米言語哲学の反省https://t.co/AkBJriPC8Q も、プライベートランゲージ=コギトの不在のことです。@Shin_Kishida
2014-04-13 21:33:06それは解説者が近視眼的なだけで、むしろより一般的には転回が知見です。プライベートランゲージ(コギトとなる言語の観念化)こそ存在しない、日本でもむしろ当たり前https://t.co/y30slFG7Jg です。@Shin_Kishida 小説など読んでられない気持ち
2014-04-13 21:31:51ハイデガーによると、デカルトがコギト(言語を観念とすること=プライベートランゲージ)で覆ったのは、そういった自然のことだそうですからね。@Shin_Kishida ギリシャにワープ(移動)して祭り(祭典)に参加したり、神の宿る自然に触れるような感覚です。
2014-04-13 21:22:40デカルトのように言葉が観念であることで生み出される深淵や超越によって孤絶した心、事物を延長の数学と凍りつく日本人のようのようなものを乗り越える力が、どうやらルター語では詩作にあるという問題は普遍的なようですね。@Shin_Kishida 言葉に心を奪われるという状態は転回した状態
2014-04-13 21:04:20そして仏教における平等性智の考え方は、ヴィトゲンシュタインの言うプライベートランゲージは存在し得ないということと同じことを言っている様に思える。
2014-04-13 21:01:52「ものごと」が「もの」と「こと」とに分離して日本語の「ことば」が誕生する以前の日本には、心的なことと外的なこととは一致する、という易経の影響があったのではないか?そして不思議なことに、これは仏教の「無差別智」という同時発生の考え方とも共鳴している。
2014-04-13 21:00:57それはまたデカルトと比してどのような衝撃ということですか? @Shin_Kishida こころを奪われるような状態です。だいぶん平生になってきました。 高校時代にデカルトの「方法序説」を読んだ時は、夜眠られませんでしたけど
2014-04-13 20:27:04