「ヘサヨ」とレッテル貼りすべきでないものに対してそういうレッテルを貼ってる場合は批判されてしかるべきですが、メタを無限に設定することそのものへの懐疑は必要かと思います。RT @han_org: 「ヘサヨ」と呼ばれる人々の中にそうしたケースが多いことには異論ありません。
2014-08-26 12:57:30.@kdxn メタ次元を無限に設定することは、しばしば悪しき相対主義へと連結します。その意味で、どこかに最後の審級を設定すべきだとぼくは思います。そしてそれは、「具体的な被害の訴え」であると考えています。
2014-08-26 12:59:52それはベタ次元ではないですか? RT @han_org: .@kdxn その意味で、どこかに最後の審級を設定すべきだとぼくは思います。そしてそれは、「具体的な被害の訴え」であると考えています。
2014-08-26 13:01:27.@kdxn そうです。ベタな次元であり、最後の審級でもあります。具体的な被害の訴えからすべての議論を立ち上げ、その議論の妥当性は常に具体的な被害の訴えによって判断されるべきだということです。
2014-08-26 13:02:34.@kdxn とりわけマイノリティの「具体的な被害」は、多くの場合、当該社会で支配的な公正原理そのものが生み出しているものであり、そこから議論を起こしていけば必ず支配的な公正原理そのものの妥当性をメタ次元から問い直すものになります。
2014-08-26 13:04:59.@kdxn しかし、支配的な公正原理そのものの妥当性を問う論点は無限にあるわけで、その中で特定の論点を採用するには、やはり「具体的な被害の訴え」を参照するしかない。ということです。
2014-08-26 13:06:46現在の排外主義の特徴はポストモダン的というか、「具体的な被害」というのはメタ次元に照らして本当に被害と言えるのか?という懐疑から始まっているので、「最後は具体的な被害だ」というのは真理ではあっても対抗言論として弱いような。スタイルの問題にすぎないですが。@han_org
2014-08-26 13:11:44.@kdxn ええ、極右排外主義そのものに対する対抗にはならないでしょうね。しかし、訴えのターゲットは支配社会であって極右排外主義ではありませんので。
2014-08-26 13:13:28@kdxn @han_org 被害を知る、被害者を優先するというのは手続きとして当然でも、社会運動が来るべき社会(相変わらず何らかの集団がマジョリティである社会)の縮図なら、「街の外で弱者に寄り添う」型の運動構想のだめさは、スタイルでなくプリンシプルの問題だと思います。
2014-08-26 13:24:05