90年代“ガーリーフォト”は“発見のツール”としての写真

heisodekker(大嶋浩)さんの「たまたま思いついたんじゃが、90年代“ガーリーフォト”ちゅうのは、ようするに“発見のツール”としての写真なんじゃな。たまたま撮られたものから誰かがその価値を発見してくれたのじゃ(その発見者は主に中年の親父だが)。撮ったガーリーたちはその価値に気づくことなく撮り続けたわけじゃ。」のつぶやきから始まった。thataphoto(畑智章)さんとのtwitter上のやりとりをまとめました。
0
@thataphoto

@heisodekker なるほど。という事は「撮る側の明確な意図」というのは写真に含まれており、それを各エレメント(構造)として抽出、分析(言語化)が可能である、という風に解釈して良いでしょうか。そして、「作り手」とは事後的に再構成されたそんざいだ、という事ですね。

2010-12-05 19:29:54
heisodekker 大嶋浩 @heisodekker

@thataphotoと思っています。例えば、「ガーリーフォト」は、その構造が弱いというか、緩いというか、強固なものではないと、僕は思っています。一つ、付け加えれば、それでも分析し切れないものが残存するかもしれません。と同時に、その分析が正当であるかはつねに議論に値します。

2010-12-05 19:40:30
heisodekker 大嶋浩 @heisodekker

@thataphoto もう一つ付け加えれば、一般的に広告写真は、その意図が明白な表現です。だからといって、すべての広告写真が“芸術的”に優れているとは思えません。ということは、その意図が、動機が、どのようなものなのかが問題になると思います。

2010-12-05 19:47:53
@thataphoto

@heisodekker ガールズフォトの「構造」の脆弱さ、というのは分かるような気がしますね。 ただ、「作り手」が、見る側によって事後的に構成されるとするのであれば、その事後的に構成された「作り手」そのものと本来の「作り手」は全く別、という事になりますね。

2010-12-05 19:57:33
heisodekker 大嶋浩 @heisodekker

@thataphotoそうですね。「本来の作り手」というのが誰を指すのか分かりませんが、少なくとも人格的な「作り手」とは異なると思っています。

2010-12-05 20:09:29
heisodekker 大嶋浩 @heisodekker

@thataphoto thataphoto氏との最初の議論に戻せば、thataphoto氏が「ガーリーフォト」に「中年おやじが求める「グラビアの女」を遥かに凌駕する深さと闇」を見たとすれば、僕は構造の脆弱さ=意図の欠如を見たわけです。

2010-12-05 20:10:11
heisodekker 大嶋浩 @heisodekker

構造の脆弱さ、意図の欠如=空虚さをいわゆる“芸術”や“表現”(という紋切り型)でもって埋めようとしたのが「ガーリーフォト」ではないかということです。thataphoto氏と僕の解釈のどちらが正当かは僕が判断することではありません。もちろん自分の判断に正当性があると思っていますが。

2010-12-05 20:22:58
@thataphoto

@heisodekker 僕の場合は、「ガールズフォト=少女マンガ」なわけです。少女の内面を写すメディアとして少女マンガが発達したのと同じように、写真というメディアでも同じ事が起こった、と。

2010-12-06 13:36:38
@thataphoto

まあ、heisodekkerさんのおっしゃる「構造の脆弱さ」をどう見るか、で意見が分かれるんでしょうね。僕はそれを面白いんじゃない?と思ってましたねえ。「アート」や「グラビア」という言葉では表現できない、なにか不気味なものが日本の少女から出て来た、と。

2010-12-06 13:41:36
heisodekker 大嶋浩 @heisodekker

@thataphoto「ガールズフォト」を社会現象(症例)として見るか、自律した表現として見るかの違いでしょうか。楽しい応答でした。ありがとうございます。

2010-12-06 17:28:29
@thataphoto

@heisodekker いえいえこちらこそ、勉強になりました。

2010-12-06 17:35:58