江戸時代 元禄・正徳・享保の経済政策

江戸時代 元禄・正徳・享保の貨幣を中心とした経済政策について
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ut_ken @ut_ken

しかし一方で、公儀(政府)は自身財源でなく社会の運営のために適正に通貨を供給しなければならないという事、通貨の価値は多くの者が認めるからこそ成立しているなどは、適切に述べていた。 #元禄正徳享保

2014-12-16 15:37:45
ut_ken @ut_ken

また社会に一定量の通貨量は必要で、急激にその量を減らすと危険であることも述べ、場合によっては兌換紙幣を一時的に発行することも提案していた #元禄正徳享保

2014-12-16 15:38:00
ut_ken @ut_ken

ただ白石にとっては、貨幣量を急激に減らせないことや紙幣発行案は不本意で、後の自伝では一般からの同様の意見を否定することによって、自分がそうしたことをまるで考えてなかったかのように取り繕った #元禄正徳享保

2014-12-16 15:39:54
ut_ken @ut_ken

七代将軍家継の代に、白石の影響力が激減していたこともありましたけど、スローペースで貨幣の品位向上・流通量減少をやりだして、この時点では実はそれほど問題はなかった。それをぶち壊しにしたのは、家継が三年で死んで、白石の罷免とともに将軍の座に就いた八代将軍徳川吉宗 #元禄正徳享保

2014-12-16 15:42:58
ut_ken @ut_ken

吉宗はこの件では悪い意味で指導力を発揮。初期のころから急激なスピードで、元禄以前の品位に向上させて戻す貨幣改鋳を実行したが、それにより社会に流通してる貨幣も一気に激減。社会の規模がでかくなったからこその、元禄の品質を落としてでも数を確保した改鋳だったのに。 #元禄正徳享保

2014-12-16 15:54:13
ut_ken @ut_ken

その結果デフレを引き起こし、大阪の米価は、政権後期の元文の改鋳まで50匁~30匁の間を、享保の大飢饉のときを除き行ったり来たり。これは元禄時代以下。さらに悪いことに、米以外の商品(諸色)は米ほど価格は下がらなかったので、相対的に物価高問題はさらに悪化した #元禄正徳享保

2014-12-16 16:00:08
ut_ken @ut_ken

なにしろ幕府・大名・武士の主な換金源は米。農民も年貢以外にも自分で米を売って現金収入源にしていた。その売値が大きく下がってしまった。では米を買う側の町人が得するかというと、購買者の大半は武士や農民なので、その購買力が下がると結局損失になる #元禄正徳享保

2014-12-16 16:02:23
ut_ken @ut_ken

敏腕官僚である大岡忠相は問題を正確に理解して、質を落として数を確保する再改鋳を吉宗に提案するが、吉宗は頻繁な改鋳はよくないと却下してしまう。そのため大岡は、吉宗から許可が下りた流通問題の統制改革に取り掛かり #元禄正徳享保

2014-12-16 16:04:13
ut_ken @ut_ken

吉宗自身は米市場への介入による米価釣り上げを試みる。だが根本的に通貨の量が足りないので、決定打にならない。そのため綱吉の時代にはいったん禁止された藩札発行を、通貨量確保のために許可するという事態にまでなってしまった #元禄正徳享保

2014-12-16 16:06:25
ut_ken @ut_ken

そして享保の大飢饉への対処で多大な財政支出があったあと、政権後期の年号 元文になってようやく吉宗は再改鋳に踏み切る。責任者は本来、江戸町奉行の大岡忠相。こ #元禄正徳享保

2014-12-16 16:21:43
ut_ken @ut_ken

この改鋳はこれまでと違い、幕府の貨幣発行益はほぼなく、純粋に社会に流通する貨幣を増やす政策だった。これで米価などが適切に上がれば、結局、幕府の税収は増えたと同じことになる #元禄正徳享保

2014-12-16 16:10:44
ut_ken @ut_ken

金貨銀貨はほぼ元禄の水準まで品位を落とし(上方の通貨の銀を弱くする処置の再興でもあった)、銭は銅でなく鉄で製造して、量を確保。かなり強引なインフレ政策であったが三年ほどで落ち着き、これでようやく物価などが適正な水準になった #元禄正徳享保

2014-12-16 16:13:21