江戸時代 元禄・正徳・享保の経済政策

江戸時代 元禄・正徳・享保の貨幣を中心とした経済政策について
歴史 新井白石 江戸時代 荻原重秀 大岡忠相 徳川綱吉 徳川吉宗 日本史
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ut_ken @ut_ken
先ほど言っていた、江戸時代 元禄・正徳。享保の経済政策について、少しづつツイート。
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まず綱吉の元禄期。綱吉が将軍になった時点で、すでに幕府の貯蓄が激減し、金銀山の産出量も大きく減っていて、それまでのように必要に応じてあるだけ使い放題というのが不可能になっていた。#元禄正徳享保
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またこの時点では、江戸時代の様々な開発と人口急増による高度経済成長も終わっていた。そのため綱吉政権は、年貢徴収などをする代官をを現地土着から中央派遣への切り替えにより効率化、大名・大手旗本統制を兼ねての封地の入れ替え、 #元禄正徳享保
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大規模な検地(検地は頻繁にせず高度経済成長期の拡大した農地の未把握分が相当あった)、佐渡金山への大規模なテコ入れ。封地入れ替えの際にも検地のデータを基に実入りのいいところは幕府領に編入した #元禄正徳享保
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よく知られる幕府領400万石というのは綱吉の時代に達成されたもので、それ以前は280万石だった。そのかいあって政権前半の緊縮路線もあって、幕府の財政はいったん黒字に回復した。 #元禄正徳享保
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ここで綱吉は、自分が強く推す文治路線普及のために、寺社などの建設や犬の収容施設などに積極支出する方向に転換した。ここで再び赤字に転落。なぜこんなに無計画なのかというと、実は当時の幕府には予算制度というのがなくて、それが成立するのは九代将軍家重のときにようやく #元禄正徳享保
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その財源補填のために貨幣の質を落とす改鋳をして、貨幣発行益を稼いだ……といわれていて確かにそれも大きいですが同時に、拡大する経済規模に対応するための貨幣流通量の需要に対して、材料の金銀が枯渇していて、質を落としてでも発行量を確保する社会的要請も大きかった #元禄正徳享保
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幕府側も改鋳政策にあたり「流通してる金銀の消耗が激しい」「金銀山が枯渇している」「貨幣の品位をかえるが、これまで通りに使うように」と明言して公示している。俗説でよく言われる、秘密裏に貨幣の品位を変えたというのは完全な間違い。 #元禄正徳享保
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そしてよく言われる「元禄の改鋳のために激しいインフレが起こった」ですが、実は具体的な物価データがない。たしかに米価を見ると改鋳直後に大きくあがっているが、それは元禄飢饉と重なったのが大きく、飢饉が収まると米価は平均以下に下がっているので、  #元禄正徳享保
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貨幣量で激しいインフレが起こったという見解には無理がある。また物価問題に関してはこのころから、米の需要は人口増にブレーキがかかったことで頭打ちなのに、生活水準は向上してそれ以外の物価は上がり続けたという状態が発生していたのも大きい #元禄正徳享保
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特に江戸は、人口の半数が消費するだけの武士の上に、米と生鮮食品以外は西国からの「輸入」に頼っているという事情のために、この物価高が特に激しかった。このあたり綱吉のころに江戸を訪れたケンペルも記録している。 #元禄正徳享保
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そのため、東国の通貨の金に対し、西国の通貨の銀の品質を落とし、金を強くして西国から物資を買いやすくする政策も行った。こうした検地、封地再編などで頭角を現し、通貨政策などで主導権を持ったのが、勘定奉行 荻原重秀 #元禄正徳享保
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続き。年号上の元禄期のこうした政策がうまくいったかというと、まあ成功だったでしょう。荻生徂徠が『政談』にて(身分秩序などの乱れの批判的ニュアンスですが)貨幣が農村にまでいきわたり村の寺も鐘を持つようになったなど #元禄正徳享保
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、貨幣経済の普及により、都市農村ともに上層だけでなく庶民まで生活水準の向上が定着した。よく知られる元禄文化も栄えた。大石慎三郎氏の説によるとこの時期はちょうど、高度経済成長が終わり、大名の借金踏み倒しによって商人の破産が頻発 #元禄正徳享保
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寺社の建設などの「公共事業」と、経済規模の拡大に必要な量の貨幣を質を落としてでも供給したことで、その景気へのテコ入れになった #元禄正徳享保
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ただ、これがいつまでも続いたわけでなく、綱吉政権の末期になると、宝永の大震災と広範囲の大津波、富士山の宝永噴火といった、日本市場でも有数の大災害が起こってしまった。それに対処するために、財源確保のためだけに短絡的な改鋳貨幣を乱発という状態になってしまった。 #元禄正徳享保
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そうした問題を改善できないまま綱吉が死に綱吉政権が終了 #元禄正徳享保
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その後を継いだ六代将軍家宣ですが、一般的なイメージでは非常に善政をしたように思われてますが、個人的には「三年で早死にしたからボロが出なかっただけ」と思ってますし、貨幣政策に関してはその政権でどうしょうもないことをやらかしています #元禄正徳享保
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家宣政権になってから将軍就任などの諸々のことで出費が必要になったのですが、その財源確保に勘定奉行 荻原重秀は銀貨を銅貨同然にまで品質を落としてまで量を増やした貨幣発行をさせられた。しかも正式な命令も出してもらえずに。 #元禄正徳享保
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「信用があれば瓦でもいい」というのは理論上の極論であって、ここまで品質を落とすのは無理があった。家宣の側近の新井白石は重秀の独断だったと自伝などで掻き立てているが、実際にはこの作業で重秀は報償などを与えられているし白石派の室鳩巣も老中などが喜んでいたと記録している #元禄正徳享保
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この時期、将軍家宣は側用人などの側近を使って専制権力をしっかり握って行使しているので、白石がどう言いつくろおうと、家宣自身に責任がある。そもそも白石が重秀罷免と改鋳政策中止を訴えても、家宣自身が死の少し前まで却下していたことは白石自身も自伝などに書き残している #元禄正徳享保
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正徳2年と正徳3年の大坂の米の相場は、150匁近くにまで急上昇。元禄の改鋳の最初の年にも105匁までにしか上がっておらず、正徳1年までは最低40匁との間をあがったりっ下がったりなので、「悪貨乱発で物価高騰を引き起こしたのは」綱吉でなく家宣です。ええ #元禄正徳享保
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この米価暴騰が吉宗政権になって少し経った享保4年まで続く。だから家宣の死の直前に改鋳乱発政策をやめさせ(荻原重秀も罷免させ)、貨幣の品質と量を適正に回復させるのを目指した白石の方針自体はとりあえず正しい #元禄正徳享保
ut_ken @ut_ken
その白石の通貨政策観ですが、確かに現代から見ると不合理な部分はありますが、近年一般に思われているほどバカではない。根本的には「金銀の品位は江戸時代初期の企画を厳守しなければならない」という理念が強烈ですし、朱子学的な抑商イデオロギーで、 #元禄正徳享保
ut_ken @ut_ken
生活水準も一定レベルに達すればあとは礼儀秩序を守れば平衡が保たれるという社会観の持ち主かつ、物価問題も貨幣量だけに求めていて、流通コストなどの問題を見逃していた #元禄正徳享保
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コメント

ut_ken @ut_ken 2014年12月16日
まとめを更新しました。
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