【開棺】中尊寺金色堂学術調査65周年語り【調査】~第五夜~ 奥州藤原四代の死因
- ou_fujiwara4
- 6500
- 23
- 0
- 1
閲覧にあたって
ここでは中尊寺金色堂に眠る藤原四代の全身ミイラおよび首の話題を扱います。
あまりグロテスクな表現にならないようにしていますが、苦手な方はご注意ください。
これまでの話はこちら
・第一夜 基本的なはなし
・第二夜 奥州藤原氏はアイヌ?&ミイラ生成の謎
・第三夜 基衡が秀衡で、秀衡が基衡?
・第四夜 泰衡の首と蓮の話
※資料略称
『中尊寺と藤原四代』→『中尊寺』
『中尊寺御遺体学術調査 最終報告』→『最終報告』
詳しい書誌は第一夜をごらんください。
解説者
奥州藤原botはふだん清衡・基衡・秀衡・泰衡の四人が主に運営し、藤原家と縁深い人々が客人としてたまに呟いています。(詳しくはこちら→http://twpf.jp/ou_fujiwara4)
が、藤原四代が自身のミイラについて語るのはとてもアレなので、以下の二人が代わりに語り倒してくれます。
・藤原 経清(ふじわら つねきよ):初代清衡の父。前九年合戦で安倍氏側につき戦う。
・佐藤 季春(さとう すえはる):二代基衡の乳母子。佐藤継信・忠信兄弟の祖父世代と目される。
今夜も楽しく子孫sの遺体語り
経清「例によって今夜も遺体の話が22時から始まりますよー。今夜は四人の死因について! ……息子と子孫sの死因について語るなんて、なんか不思議な気分だねははは」 季春(あいかわらず朗らかな経清様……)
2015-03-26 21:44:11経清「中尊寺学術調査語りも実にしつこく5夜目に入りましたー!できれば今回とあと一回程度で終わらせたいとは思っているけど……」 季春「副葬品の話は割愛ですかね」 経清「かもね。今夜は四人の死亡推定年齢と死因。次回は容貌やら身長や血液型と遺体の保存状況を語って、それで終わりかな?」
2015-03-26 22:01:29死亡推定年齢
経清「まずは四人の推定死亡年齢だ」 季春「文献では清衡様73歳、基衡様は確実な記述はなく諸々の史料から50代~60代前半と推定され、秀衡様60代半ば、特に66歳が有力説で、泰衡様は35歳となります」 経清「遺体の年齢は主に歯の摩耗度や頭骨縫合の度合いから判断されたという」
2015-03-26 22:10:16経清「例によって『中尊寺』と『最終報告』中に記載された「基衡」のデータは秀衡のものとして、「秀衡」のデータは基衡として扱う。このへん歴史の本や小説で混乱が見られるようだが……結局、報告書の記載はすべて逆として扱うのが妥当だと思う」
2015-03-26 22:21:09季春「清衡様の御身体は四体中最も高齢であり、70歳以上と見立てられ、文献と矛盾はありませんでした」 経清「でも基衡は……これが先日の遺体錯誤問題で引っ掛かった点だ。文献上、泰衡の次に若い遺体であるはずだが、調査前は秀衡と伝えられていた基衡遺体の推定年齢は70歳手前だった」
2015-03-26 22:22:12経清「一方、調査前は基衡と思われていた秀衡遺体は50~60歳。これでも文献上の秀衡の享年と大きく違うとは言えず、誤差の範囲と言える。ただ、基衡の遺体が70歳前と言うのは謎だ。『吾妻鏡』も「夭亡」と書き、老年前に亡くなったと解釈されている。……結局、この謎は当分残りそうだ」
2015-03-26 22:28:00【補足①】基衡の「夭亡」
基衡は生没年ともに不明。一説に1157年に死亡とも言われるが、史料的な裏付けはない。
「夭亡」は若くして亡くなるの意味であり、鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』では基衡の死をこう記していることから、基衡は老年前に亡くなったのではないかと思われている。
しかし一説によれば『吾妻鏡』で用いられる「夭亡」は他の使用例からみて「不慮の死」「突然の死」という意味でも使われ、基衡が老年前に死んだことを意味するとは限らない、という見解もある(後述するように基衡は急死であり、「突然の死」と表現できる)。
基衡の父・清衡は後三年合戦中の1086年(清衡30歳前後)に異父弟・清原家衡にその妻子をことごとく殺されている。このため基衡は1086年以後に新たに生まれた子と考えられる。
一方、1187年に亡くなった秀衡は諸々の史料から30年前後奥州を治めていたと考えられている。
これらのことから基衡が1087年頃に生まれ、1150年代半ばに死んだとすれば70歳前後で死んだこととなる(しかし後三年合戦後の混乱期にすぐ生まれたとも思えないのでもう少し死亡年齢は下がるが、遺体の死亡推定年齢の誤差範囲と言える)
経清「で、泰衡もこれまた問題が……」 季春「泰衡様の享年は35歳が主流ですが、これは北条版『吾妻鏡』が根拠です。しかし異本である吉川版『吾妻鏡』では25歳。一般に北条版が広く流布していますが、平泉に関する記述では吉川版の方が正確だという説もあります」
2015-03-26 22:32:04季春「歯を調べますと 『歯の色は非常に綺麗で、着色も少ない。上下顎の配列は正しく(略)全体に咬耗は少なく(略)下顎第三大臼歯(智歯)の遠心根の尖端が石灰化未完成で(略)その年齢は二十歳~三十歳と推定せられるが、私達は、二十五歳位と判定』(『最終報告』97p) とあります」
2015-03-26 22:38:16季春「他に、切歯の摩耗度合いから見ると30歳前後。一方、頭蓋骨は20代半ばと30代半ば両方の特徴を有するという見解も出されています」 経清「総合的に見て30歳未満の可能性が高い。ただ他の三人もそうだけど、現代人との比較で年齢を出したらしいから果たしてそれが妥当かどうか……」
2015-03-26 22:43:20基衡と秀衡は急死
経清「次は四人の死因について。もっとも、四体とも内蔵は全く無いわけだから、死因が臓器に起因するものであってもそれはわからない。レントゲンで観察できる範囲での話となる。泰衡は昨夜話したし、清衡は……ちょっと後にして基衡と秀衡を先にやろう」
2015-03-26 22:47:43季春「はい。……お二方とも肉付きが良く堂々とされた御身体のままで、長く病臥したものでないことははっきりしております」 経清「つまり病で少しずつ痩せ衰えて死んだわけではなく、一見健康であったのに急死したということだ。だから逆にがっちりした体躯のままミイラになれたってこと」
2015-03-26 22:52:27経清「基衡の骨には脊椎炎の像が認めれた。このことから何らかの傷跡より細菌に感染し感染症で死亡したのではないかとの推論も出たが、同時に皮膚に浮腫の徴候があり、高血圧による賢疾患や心機能不全、または脳溢血により急死した、とも考えられるという」
2015-03-26 22:56:51経清「秀衡は『吾妻鏡』でも急死であったことが分かる。『中尊寺』には 「頭蓋骨板障静脉管がレントゲン像に著明に現れており、これは脳圧の上昇を意味する」(79p) とある……この一文が奥州の、それ以上に多くの人や時代の運命を変えた<秀衡の急死>の真相を伝えているのかもしれない……」
2015-03-26 23:03:11【訂正】
『吾妻鏡』文治三年十月二十九日には「このところ重病で」とだけあり、必ずしも『吾妻鏡』だけからでは急死かどうかはわからなかった。ただ、諸々の史料、研究から急死であることは定説になっている。
季春「秀衡様は骨の異常から骨破壊性の癌腫に冒されていた可能性も指摘されましたが、病に伏せた様子が無いことから脳溢血による急死説が有力ですね」
2015-03-26 23:07:06清衡晩年の真実
経清「……次は私の息子の清衡だけど……悪いけど該当箇所を読み上げてくれるかい?」 季春「……あの、これを明かしてしまってよろしいのですか?」 経清「ああ、やってくれ。私に思うところがあるんだよ」 季春「……では、私も口にするのは辛いですが……」
2015-03-26 23:10:53季春「『(清衡は)左側大腿骨、脛骨、腓骨、上膊骨、撓骨等に小窩性骨萎縮著明で、右側には殆ど斯くの如き変化なき点より考えると、右側に脳溢血或いはそれに類する病変を招来し、その結果左側上下肢に半身不随を起し』(『中尊寺』79p)」
2015-03-26 23:14:47季春「続けます。 『廃用性骨萎縮(使用しないためその部分の骨が脆くなる)を来し、更に同側に血液循環障碍を招来し、骨の栄養障碍を惹起して益々骨萎縮が甚だしくなった』(同)」
2015-03-26 23:17:04