真夜中の釣り大会#1
荒涼とした風。視界を遮る霧。低木と砂利で埋め尽くされた地面。二人の観光客が山道を登っていた。二人ともスーツ姿の、一見どこかのサラリーマンに見える。だが、彼らはスーツ姿でも何の問題も無いように山道を登っていた。その足は登山靴ではなく、革靴だった。 1
2015-05-27 20:39:44「フィル、ここは寒すぎるよ。灰土地域の南西地方はこんなに寒いのかい」 「レッド、今からコートを取りに行くには遅すぎるよ。山の天気は麓とはだいぶ違うらしい。諦めて歩こうよ。その方が身体が温まる」 フィルとレッド。それが二人の観光客の名前だ。二人は長い旅をしている。 2
2015-05-27 20:43:22フィルは長身で黒髪の美男子だ。しかし、そのほっそりとした顔もいまは疲労で歪んでいる。そして、となりでこの世の終わりのような顔をしているのはレッドだ。彼はフィルよりいくらか背が低く、赤毛の髪をしていた。勝気な顔は完全に疲労で塗りつぶされていて、ぜえぜえと息を吐いている。 3
2015-05-27 20:47:39「こんなことなら、観光レポートの仕事なんか引き受けるんじゃなかった」 レッドが駄々っ子のような声を上げる。二人は麓の観光協会で、一つの仕事を請け負った。それは、山奥で開かれる催し物のレポートをするというものだった。二人は偶然それを知り、謝礼が出ると聞いて飛び付いたのだ。 4
2015-05-27 20:51:09鼻水を垂らして必死に山道を登るレッドを、フィルは励ました。「アンコウガエル釣り大会、真夜中の幻想、光揺らめく満天の夜空と地上の星! アンコウガエルは鍋になるってさ。いま寒い思いをすることが、最高の調味料になるのさ。温まるぞー」 レッドの耳がピクリと動いた。 5
2015-05-27 20:55:46「俺は鋼の男だからよ、このくらいの寒風程度では負けないのさ」 人参を前に垂らされた馬のように、レッドの歩くペースが速くなった。「レッド、君は単純だね。そこが君のいいところだよ」 フィルはその後に続く。ふと山の空を見上げると、ぽつぽつと雨粒が風に混じるようになってきた。 6
2015-05-27 20:57:46空にはネズミ色の雲が満遍なく広がり、隙間の一つも見えない。「ひと雨来るかこりゃ、山の天気は変わりやすいな」 そのとき、牛が唸るような低い音が聞こえた。音のする方を見るフィル。すると、山肌に突き刺さった鉄の柱の上で、ボロ切れのような服を着た男が笛を吹いていた。 7
2015-05-27 20:59:45その奇妙な人物は、低く唸るような音の笛を吹き続ける。すると、どういうことだろう。雨雲が渦を描いてその笛に吸い込まれていくのだ。遠目に見たら竜巻に見えるかもしれない。しかし、雨雲は次々と吸い取られ、空には薄く青空が見え始めている。「あれは……」 「雨吸いだよ」 8
2015-05-27 21:04:13フィルの耳の傍でささやく声が聞こえた。驚いて振り返るフィル。だが、フィルとレッドの他に登山客はいない。レッドはと言うと、背中が小さくなるほどだいぶ先まで登っていた。きょろきょろと辺りを見回すフィル。再び声。「お前さんが奇妙に見上げる笛吹きさ。俺の声だよ」 9
2015-05-27 21:07:23驚いて笛吹きの男を見上げる。彼は笑ってこちらに手を振っていた。表情がやっとわかるくらい遠くにいるというのに! 「ハハァ、なんかの怪異か、魔法使いだな」 フィルはそう結論付けた。関わってもいいことは無い。フィルは雨吸いと名乗った男に一礼し、レッドの後を追いかけた。 10
2015-05-27 21:09:32会場は山の中腹にある山村の広場にあった。山村は年季の入った煉瓦の家が十軒ほど輪を描くように立てられており、村長の家だか集会所だか分からない大きな建物が中央にあった。その前が広場だ。病院も学校も無い、寒村そのままの集落だ。異様な静けさ。活気も無い世界。 11
2015-06-01 19:44:55「釣り会場ってどこだろう」 先に到着していたレッドは広場を見渡した。何か視界に入っているようだが、それを認めるには少し勇気が必要だった。遅れてフィルが広場にやってくる。「ほら、あそこみたいだよ……多分」 フィルの視線の先には、レッドが見ないようにしていたものがあった。 12
2015-06-01 19:47:40それは木製の粗末な長テーブルで、広場の土の地面の上に無造作に置いてある。テーブルクロスも無い。そして、やはり粗末な木の椅子に座るのは、若い村娘だった。一応登山服を着ていて、長テーブルの上に幟の突き刺さったリュックが置いてある。幟には、「釣り大会スタッフ」と書いてある。 13
2015-06-01 19:51:35スタッフ一人。一人だけなのだ。もう集合時間間近だと言うのに、他の参加者の姿は無かった。村娘はフィルとレッドをチラチラと……助けを求めるように見る。フィルはそのいたたまれなさに、思わず目を逸らした。「行こう、フィル。良かったな、貸し切りだ」 レッドはそう言って歩きだす。 14
2015-06-01 19:54:14「お嬢さん、ここが釣り大会の会場かい?」 「え、あ、はい! そうです!」 スタッフはフィルに話しかけられて上ずった声を上げた。その眼は待ち望んでいた助けの手が差し伸べられたように輝いている。「あと10分で釣り大会を開始します。本日は天気も良く……」 スタッフの娘は天を仰ぐ。 15
2015-06-01 20:02:23しかし、見上げた空は薄く雲がかかった曇り空だ。日は山並に沈みかけて、辺りは薄暗い。民家の屋根に止まったカラスが寂しく鳴いた。「ええと、さっき雨が降ってたんですけど、すぐ止んでくれて助かりました」 スタッフがアハハと笑う。フィルはそれ以上突っ込まなかった。 16
2015-06-01 20:07:13しばらく会話もなく待っていると、一組の若いカップルが現れた。それで参加者は全員だった。時間になり、スタッフの若い娘がちらりと時計を見て、口を開く。「こ、これからっ! アンコウガエル釣り大会を行います! わーぱちぱち」 娘の拍手は静かな広場に虚しく響いた。 17
2015-06-01 20:09:56「ここで登山登録をしていきます。言い遅れましたが、今回ガイドも兼任させていただくメファルです。どうぞよろしく」スタッフの娘はそう言った。フィルとレッドはやれやれと言った様子で、机の上の用紙に連絡先と名前を記入する。「あのー、お二人さん?」 メファルが声をかける。 18
2015-06-01 20:12:52「その格好、どう見ても登山の格好ではありませんよ。アンコウガエルの生息地は山の奥深くにあります。流石にスーツと革靴では」 しかし、フィルとレッドは笑うだけだ。「俺達はプロの観光客さ。むしろこれが俺達の正装ってものさ」 そう言ってレッドは胸を張る。 19
2015-06-01 20:15:37「まぁ、山をなめないでくださいね」 メファルはそれ以上突っ込まなかった。彼女は釣り大会の注意点を4人に説明する。「最近雪熊に遭遇する事件が多発しています。注意して、皆鈴を持ってください。雪熊がどんなに恐ろしいか知っていますね?」 そう言ってメファルは鈴を手渡す。 20
2015-06-01 20:19:46雪熊とは白い毛皮をした巨大な動物だ。雑食性で、時にはひとを襲う。極地周辺に生きており、この付近も生息域なのだろう。麓の村では、雪熊の剥製を幾つも見てきた。警戒心が強く、鈴の音などを聞くと雪熊の方から避けてくれる。ただし、例外もある。絶対安全とは言えない。 21
2015-06-01 20:23:15