無時間なのか無限遡行なのか、お二方の哲学的な解きほぐしのまとめ
- sunamajiri
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@ecila808 例えば円周率の計算をすると、小数点以下が無限遡行をするわけです。 一生かかっても真の真円にはなり得ない。 その思考が繰り返されてしまうのであれば、それは無限への囚われである。 思考停止する為の理性が無いと、無限性の絶望に陥りフレーム問題にもつながるということ。
2015-07-22 01:17:57@inja650rr 真円がわかっているから、真円でないことがわかるんじゃないですか。真円の把握が、真円であるかどうかの基準になっているのですから我々は既に不完全な円の立場にはいません。これはプラトン風ですが、西田風にも、自分が現実を生きている、否そのものなのだから現実は語り得る
2015-07-22 01:22:36@inja650rr 何の転換にもなり得ない と書きたかったです。まあ一般的な涅槃理解と関係ないレベルで言われるなら、それもありですが、自己流用法の使用者はその概念の内実を説明する義務は課せられるわけですよね。
2015-07-22 01:25:54@ecila808 その通りだと思います。無駄な思考をループさせてしまうからこそ人類は代数的にπを置く事で解決した。 しかしフレーム問題というものは正に思考の無限ループである。つまりAIはそれを防ぐためのプログラムが無ければ暴走する。 それこそが涅槃寂静の理解ではないでしょうか?
2015-07-22 01:27:36@norokarin 啓蒙の思想は重要だと私も考えます。 何故啓蒙思想が発達しなかったのでしょうか? また、国語教育を国際レベルにするという事はどのようなことですか?
2015-07-22 01:31:35@inja650rr 悪無限、無限の連鎖を超える真無限の積極性をどう評価するかの問題ですね。例えば対象論理の立場で、現在を捉えようとすれば捉え難く逃れていく。現在は捉えれば過去となる。しかし我々は現在を生きているのです。主体的な立場を論理化するには別の論理が必要です。
2015-07-22 01:33:02@inja650rr 龍樹的な八不というのも、無矛盾論理の立場で命題定立から矛盾を導くだけであり、それも正しいが、その底に弁証法が考えられないか。あなたの方向は、考えられないものを対象論理の側から見てどう処理するかという話に見えますが、私は考えられないもの自身の論理を問題とする
2015-07-22 01:36:12@ecila808 別の論理…「思考停止」をするという論理は如何でしょうか? 捉えられないものは捉えられないのだからその先に真理は存在しない事が確証する。 であれば、その思考力を別のベクトルに向ける。という案ではいかがでしょうか?
2015-07-22 01:37:03@inja650rr 対象論理で思考停止、アポリアに陥らざるを得ないところを、主体的な論理で考えるということです。対象論理で対象論理自身を成立させる、自己とか世界とか神とかいうものは扱うことはできない。真の形而上学を思考停止して、単に政治や科学しないといけないとは思いません
2015-07-22 01:40:30@ecila808 わたしも「しなければいけない」…とは考えてはいません。 何故ならば、仮に思考停止の論理を用いたとして、現実的な存在として恣意的に無限ループをさせ、それにより現実的に食事が出来る人がいるからです。
2015-07-22 01:44:48@ecila808 デカルトの思想にも繋がると思ったのですが… 貴方にとって哲学をするという事は無限ループを繰り返し 退屈しのぎの哲学をするという事ではないのではないですか?
2015-07-22 01:49:10@inja650rr 無窮の螺旋運動だとしても、無限ループなどというものとは思いません。ある無限ループに我々は気付くとき、そのループを超えるのであり、次のステージが始まるのですから。それ以上に現実は直接的なのであり、哲学は現実ないし生命の論理的表現であり、思考の空転とは思いまへん
2015-07-22 01:55:39@norokarin なるほど。 確かに日本にはそういった思想家はいませんね。 世界にはもしかしたらいたのかもしれません。 しかし現実的に「弱者や虐げられた底辺の人々」は未だ救われていません。 ならば啓蒙により実現をさせる努力が必要かもしれませんね。
2015-07-22 01:55:50@ecila808 ええ、それで既にアプリオリ的な「哲学」というものに今、我々は到達したと思います。 即ち先に語った通り、「認識者の捉え方による」という解答に到達するのではないでしょうか? twitter.com/inja650rr/stat…
2015-07-22 02:02:30@ecila808 それは実際がどうであれ、 自己の捉え方でかわるのではないでしょうか? 時空を無限だと捉える者からしたら、 恐らく現存在というものに囚われているし、 有限だとするのなら現存在から自由である。
2015-07-22 00:47:56@inja650rr それはただの相対主義か不可知論でしょう。哲学なら最初からしています。あるいはそれ以上の意味含蓄があるとしても私には理解できませんでした。 事象や現実と関わっていないで方法だけ語っていてもあんまり意味があるとは思えません。方法も事象の一種ではありますが。
2015-07-22 02:06:51@norokarin ええその通りです。しかし「啓蒙時代」というものは哲学者そのものにより潰される事となった。 何故ならば社会構造を形作る為の哲学者にとっては有害でしかなかったからだと思います。 しかしいまこそ、啓蒙が必要だと考えます。
2015-07-22 02:07:09@ecila808 哲学は相対主義に始まり相対主義で死にました。 結局物事の真理の追究という物を諦めてしまったからです。 しかしながら、真理を追究するための方法について私は「ある」と明確に断言できます。
2015-07-22 02:09:48@inja650rr 現実についての何らかの根本的解明を与える理解ないしその表現となる論理構造や命題のことです。例えば相対主義は一切の認識は単に認識主観に依存し客観的基準はないという仕方で現実を解明し、プラトン主義は個々の認識の根底にそれを成立させる普遍的なものの光を解明します
2015-07-22 02:22:17@ecila808 はい。そういった意味であれば、積極的な哲学知といっても良いでしょう。 もっと言い換えるなら、哲学的語彙を必要としない万人の為の哲学。 更に言い換えるなら「哲学的知識」ではなく、行為そのものとしての「哲学」といったところでしょうか
2015-07-22 02:25:02@inja650rr 要するに論文なり本を書くとすればその中身になるものは何かということです。本にならないという考え方を取るなら別ですが。
2015-07-22 02:27:07