八甲田山雪中行軍遭難資料館訪問記

2015年9月15日午後、青森市の幸畑地区にある資料館と八甲田連峰山中にある記念銅像に行ってきました。
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佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

銅像のある高台までの坂道250メートルを歩いていく p.twipple.jp/qZnPi

2015-09-16 08:09:07
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佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

夕日をバックに、後藤伍長の銅像。建立されたのは日露戦争後のこと。大山巌元帥などが発起人。 p.twipple.jp/Yi5Bb

2015-09-16 08:12:29
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佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

この付近で後藤伍長は仮死状態で目を見開いて直立したまま雪に埋もれていたところを発見救出された。遭難事件後、後藤伍長は郷里宮城県に戻り44歳で没。(館長さんの話によると、酒の飲みすぎだったらしい。。。)   p.twipple.jp/0nRzF

2015-09-16 08:18:42
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佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

銅像の裏に、雪中行軍参加者の名簿が刻まれているが、観光客が後藤伍長の強運にあやかりたくて、彼の名前を手で擦っていく。それで、そこだけピカピカに光っている。これも予め館長さんに教えられていたので撮影できた。 p.twipple.jp/6BFt8

2015-09-16 08:21:36
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余録

佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

後藤伍長のお子さんは長命でいらして、102歳でご存命とのこと。 なお、遭難事件生存者の内、凍傷が軽くて四肢切断など必要なかった士官は日露戦争に従軍し戦死した人もいる。また、四肢切断の後、地元岩手県に戻って職人となり、昭和30年代に障害者顕彰で厚生大臣表彰を受けた人もいる。余談

2015-09-16 08:31:38
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

さすがに200人単位の雪山遭難事件、しかも一般市民の生活圏内でとなると、事件そのものを隠蔽することなどできないわけで、当時の新聞各紙もこぞってこれを話題にした。生存者救援以後の事故処理にはいまだ謎の部分もあるようだが、明治30年代の陸軍情報、これからも新資料発見などはあるだろうか

2015-09-16 08:38:39
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

やはり八甲田山雪中行軍遭難事件の社会的イメージは、新田次郎の小説とそれを元にした映画でだいぶ固まってしまっている。ところが、小説が出る以前だと、地元でも事件の記憶の風化は進んでいたようで、それを危惧した地元郷土史家が情報を収集したという経緯もあったらしい。

2015-09-16 08:40:58
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

このような事態は歴史家にとっては痛し痒しで、小説・映画によって事件の記憶の風化は食い止められたが、今度は「小説ではこう言っているが、史実はこうです」という但し書きを付けていく作業が伴ってくる。だが、このような作業を面倒がってはいけないし、うまい形でのタイアップが理想だと思う。

2015-09-16 08:46:10
佐藤賢一の中の人 @ke_1sato

ちょっと細かいことを言うと、八甲田山遭難事件の時には、まだ日本にはスキーは普及していないんですよね。この事件を受けて北欧からスキーの寄贈を受けたとかいう記事も続きます。有名な高田でのレルヒさんによるスキー指導もこの後です。だから、徒歩と橇による雪中行軍しか無かったわけですな。

2015-09-16 10:09:16