私家版ハイデガースタディー08 時間を現勢的有限の規定とするとき人間は有力化する
- sunamajiri
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ちなみに、「純粋時間」といま言ったのは私の造語なのだが、いずれにせよ、カントの時間規定、デカルトのコギト、アリストテレスの規定としての霊魂を、自他性や他者の問題と誤謬することで、神は人の模造にすぎないという疎外論、あるいは無神論が派生してしまうのだ。@LitoSnowfield
2015-09-05 09:37:29批判哲学や超越論は、誤謬を明らかにするための現象学的な純粋論理なのだが、ここで唯一誤謬とされるのは、他者性なのだ。他者という何らかな対象は、時間という非対象によって、アプリオリに超越されているのだ。それを他者の問題とする誤謬が、斥けられるのだ。@LitoSnowfield
2015-09-05 09:41:17これによってプリオリテート(アプリオリの他者性、つまり神)が、テンポラリテート(霊魂という時間規定の超越論性)に回収されて、心身問題のようなハードプロブレムは解決されたのだ。Q.E.D (^-^)/ @LitoSnowfield
2015-09-05 09:43:00@sunamajiri @inja650rr 大本さん、武谷三段階論ていかがとらえられますか? 各人の信じ込み思い込みをある程度土俵に乗せきれる貴重な試みと考えておるのですが。。。
2015-09-07 20:01:05量子は実体ではなく本質だという武谷弁証法ですね。私も今、ニュートンをカントが形而上学化して、実体的規定である霊魂を非実体化、つまり本質化する話をやってますが、武谷物理学は原子核認識論の先駆ですものね。ちょっとテクストを当たらないと。@whiskylink @inja650rr
2015-09-07 20:32:08モナドのような死力に対する活力というカントの動力学は、非実体としての時間の規定を判明にしてるのでしょうが、そこで信じ込みというのは非実体=時間とは何か?ということでしょうかね。@whiskylink 各人の信じ込み思い込みをある程度土俵に乗せきれる貴重な試みと考えておるのですが。
2015-09-07 20:50:15@sunamajiri ご返信ありがとうございます。今現状(いやこれまでも長く)個々人間で語られることは主観というよりも、直観に近いような内容において議論が交わされているように思えているのですが(これも主観)、ただそれが真に「間主観性」を目指すものならば、武谷三段階法における→
2015-09-08 07:14:30@sunamajiri 2段目(ある程度の実体性裏付け)、3段目(その実体性を複数事象から抽出し、共通点を見出し還元し、フッサール的にいえば本質を観取する)というディベートを行うことができれば、「人それぞれオチ」とか、個々人の思い込み信じ込み披露に終始しないのかもしれないかもなと
2015-09-08 07:19:46武谷が機能主義ではなく実体を捨象しても質点あるいは量子を含むといったようなことは、フッサールがカントを動力学として捉えられず純粋自我に絶対化する中で、ハイデガーが動力学的に自我から時間に根源規定を非実体化する転回に言及するのに似ていますね。@whiskylink 人それぞれオチ
2015-09-08 12:24:26今日、廃止というと聴こえの悪い国立大の文学部の理系への綜合が取り沙汰されているが、それも、こうした質点以上の規定の非実体化、あるいは量子化が個々人が具備する機能となるとき、そうした綜合も奏功するのかも。@whiskylink 個々人の思い込み信じ込み披露に終始しないのかも
2015-09-08 12:29:16問題は武谷が批判する形而上学が、カントのいう形而上学=動力学ではない、ということに尽きると思います。質点やフロギストン、あるいはエーテルは菊池健三によると晩年でも保持されている。つまりカントは途中で転回していない。ハイデガーもおそらくそうです。@whiskylink
2015-09-08 12:35:37日本では文学部がハイデガーの転回の内的必然性という論点だけに収束・解消した感があるが、カントもハイデガーも形而上学から転回していない。それを実体論的に誤読すると武谷のように、質点は保持して形而上学が批判対象となる。しかし総合すれば同じことなのでしょう。@whiskylink
2015-09-08 12:38:13おそらく上の方で、通用問題を欺く神の権威を批判する伝達問題のように矮小化する話がでてきたから、非実体的規定という形式的告示が、間主観性のような方法の問題として俎上に載せられるのだろうけど、しかし転回と見えるのは転回していない側だけの問題、ということでしょう。@whiskylink
2015-09-08 13:44:21当然、質点も量子も、古代の規定によって、単に予想されていたもので、近代の遠隔作用の物理学は尽く、カント的にいえば独創的発明ではなく、単なる発見にすぎない。その発見を進歩のように日本では短絡してしまうのだが、認識の問題は特に目新しくはない、というだけでしょう。@whiskylink
2015-09-08 13:45:01あくまでも弁証法によって実体を得るというのは仮象でしょう。現象的には規定だけが問われている。実体を規定とすれば仮象の弁証法が始まるが、その実体は無限に発見されない。しかし、非実体を規定とすれば弁証法はハイデガーのように克服され、無限性が発見されるといった。@whiskylink
2015-09-08 13:55:37気になるのは、日本の文化なのかもしれないが、弁証法を意識を実体化させるための方法のように捉える点ですね。カントの脳理論というのは、非実体的規定である霊魂の非実体化の超越論ですが、日本では意識を霊魂のように実体化させる弁証法が好まれる。@whiskylink
2015-09-08 13:57:38そうそう。他人のことは分からないからね、それでつい自分が基地外なのではないか、と思い込んじゃうんですよ。それで近代哲学の祖、デカルトは、我思う故に我あり、というのです。@utubyou009 「自分の頭はおかしいことは確かだ」と自覚してたが、他人は正常だと思っていた。
2015-09-11 19:21:35ちなみにそこでは、霊魂の根源規定性という図式論は先取りされてませんけどね。その箇所で、超越論的規定=純粋理性と、実践や倫理の形而上学が切り分けられる、ということに則って、菊池健三の『カントと動力学の問題』も論を進めています。@utubyou009
2015-09-12 18:20:35ところで、概念は実体でない、コトバはモノではない、ということに日本人が疎かったとはとても思えないのだが、時代が下れば下るほど、価値だとか国家だとか幽霊だとか擬人化だとか、実体性の話に傾斜する。西欧人は近代になってやっとそれを克服したのに、逆行するのは七不思議。@J_J_Kant
2015-09-12 23:32:11カント書ではそれが地平として形式的告示されるけど、その前哨のカント講義書では、派生的直感(対象の原因でないこと)に対するカントの根源的直感(自己原因、つまり神のこと)だとされてますね。@estei_st 有限でない立場に立たなければ出来ないのではないだろうか。
2015-09-14 02:33:57いうなればだが、カント講義書では、カントが自己原因性=根源的直感の告示までは到達するも、その無限と有限の淡いである、超越論的規定を告示し損ねた、という批判になっていて、カント書ではそれが超越論的時間規定という地平だ、と形式化されてるようです。@estei_st
2015-09-14 02:35:43しかし、ハイデガーのカント書が形式的告示するカントの図式=超越論的時間規定を、『カントと動力学の問題』の菊池健三は、超越論的統覚=根源規定としての霊魂、というカントの脳理論=形而上学を告示してますね。霊魂は脳のような実体ではなく規定の根源性だ、という。@estei_st
2015-09-14 02:39:45菊池健三の『カントと動力学の問題』は、ハイデガーのカント書『カントの形而上学の問題』をパクったようなタイトルなのだが、ハイデガーへの言及性は微塵もない。確かにハイデガーは根源規定の形式的告示を行ったが、すでに形式性を要請されなくなっているという。非常に良書です。@estei_st
2015-09-14 02:42:04カント~ハイデガーのプリオリテート~テンポラリテートという根源規定、あるいは根拠律の話は、本来は規定性の種別のように和訳すべきなのかもね。現代思想は脱根源の話をしてるようだが、日本語の訳語が未決定すぎて、話題に入ってこれない人が多いから。@kundhunda
2015-09-15 20:49:42