[中村政人個展]再考:90年前後の東京のアートシーン。そのとき何が起こっていたのか?[実況]
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出原「水戸芸が恒常的に現代美術が見られるようになった最初。90年。 同じ時期に川村現代美術館もあるがクラッシックだ。 そして95年に東京都現代美術館。
2015-10-18 15:51:59出原「そして90年代にはバブルが崩壊し経済的にも混沌とする。 先に述べたように画廊が変化し銀座からも離れる。そのため90年代になるとその動向をすべて見ているという人はほぼ居ないのではないだろうか、と。
2015-10-18 15:53:12福住「現在に繋がるマーケット状況を小山さんは作ってきた。制度に関する問題意識があり現状を変えたい意識があったのではないか?
2015-10-18 15:54:22小山「最初は西村で働きその後に白石。93~94年の時代のマーケットは美術館であった。ほとんどの都道府県には美術館があり、例えば某美術館は2億程度なら会議かからないとか話あり、だから95年まではアーティストは世界と繋がっていなかった。
2015-10-18 15:55:34小山「森村、村上、ヤノベ、、、95年以降に、フジテレビとか笠原とかしかアートフェアに出るなんてなかった。でもそれらは巨大ギャラリー。僕らのようにインディーズと違い、紹介に巨大にカネをかけたが、ほとんどダメだったんでないか。なので若い美術家のマーケットなんて無かったと思う
2015-10-18 15:56:49小山「バブルにはお金があり、東高美術館では最後にジェフリー・ダイチなどキュレーションして今や超有名な海外美術家が展示したが、バブルも終わりで殆ど売れなかったけど。 ハイネケン、キリン、、、若手美術家を支援するハイネケン、そこに行くとタダで飲めて皆と会えた。
2015-10-18 15:58:41小山「東高で村上隆と会ったが彼曰く玉川上水に知り合いがアートスペース作ると、そこには中村政人も入ってたが、綺麗な企画書もあって、なのでプレスを紹介してと。つまり自分たちでできる発表の場を作ろうと必死だった。
2015-10-18 16:00:00小山「そんな流れで中村と村上展に繋がり、白石さんも多額のお金を出資していた。でも作品はほとんど売れなかった。 中村上東京店では白石のスペースで村上、そこから見えるビルの屋上で中村でその展示で色々交渉してたが、値段安いし売れないし・・・
2015-10-18 16:01:30小山「大阪展の鶴橋ではほんと莫大なカネを使ったけど、すごい面白かったが、ペイはできなかった。まあそんな考えなかったかもしれないけど。 貸画廊でなく見せる場所を作ろうと。バブル崩壊で企業スペースはなくなるし。それがギンブラートへ繋がるかも。自分たちで何かしないといけない、と
2015-10-18 16:02:41小山「売れるなんてそんな・・・まあ、売ろうと思ってたけど。白石や西村では売れる人見てたし、でもそれは美術館で作品も美術館仕様。 洋画系の日動画廊だと小さなサイズだと一般に売れるけど、現代美術だとそんなマーケット無かった。
2015-10-18 16:03:54小山「90年代前後にはポストもの派の作品も売れていた。戸谷さんも売れてて。もともと企業経営者だったが作家一本に。 出原「作品が何点かつくれば十分生活ができた。李禹煥は別格でペインティングあったし。
2015-10-18 16:05:18黒沢「水戸芸仕事しつつも東京で仕事していた。水戸芸は現代美術を扱うところで作家に会うし行動をともにしていた。その前になぜ私がここにいるか話す。1989年、水戸芸準備室へ入りオープンが90年。そこから5年務める。
2015-10-18 16:07:09黒沢「水戸芸前は美術大学で作品作る側だった。院卒後は音楽活動していた。大学時代はもの派的な作品が王道であった。「関係」なんてタイトルの作品が多かった。それが当たり前のようだったが本当かと疑問だった。
2015-10-18 16:08:22黒沢「5年位下の世代から、自分たちが遠慮してやらなかったことを、平気でやり始める人たちが出てきた。これをやったら美術でないということを。
2015-10-18 16:09:15黒沢「バブルの頃で適当にやっても食えたりしたけど、アトリエ出版社が作家のスタジオ訪問の雑誌出しててその取材したりして、それが面白かった。まさに美術館へ向けて作ってるものを目の前にしすごく良かったのにそれが置かれる美術館で再見したのだがそのつまらなさに驚いた。
2015-10-18 16:10:58[補足] 「…つまらなさに驚いた」とは、美術家のスタジオで作られてる現場でその作品を見ると面白いのに、それが収蔵され美術館へ展示されると途端に面白くなくなる。つまり美術館は作品を殺してしまう、というような意味。 twitter.com/misoni_2013/st…
2015-10-18 19:01:35黒沢「準備室に入った時には教育担当だったし、というか水戸芸が無かったら美術館に関わることもなかった。つまり音楽ホールあるし劇場あるしそしてギャラリーがあり面白そうだ、と。またバブル崩壊直前にバンドが解散してたのもある。でも美大に居たので知り合いも多い、と
2015-10-18 16:12:34黒沢「水戸芸の特徴はコレクションを保たないという趣旨を掲げたこと。無いわけでないけど。つまりこれまでの美術館のようにコレクションをして常設展示をしないというのは公立では無く衝撃であった。
2015-10-18 16:13:18黒沢「水戸芸がコレクションを持たない、なのでソフトで動かすことになる。また当初スタートした時には美術関係者がほとんどいなかった。館長の○○、そしてディレクターに○○、実務レベルでは1人ですぐ辞めた。 長谷川祐子ら含めて美術館初めてだった。
2015-10-18 16:14:33[修正]館長の○○、→初代館長の吉田秀和 そしてディレクターに○○→中原佑介か?(ディレクターと発言したか不明) twitter.com/misoni_2013/st…
2015-10-18 19:09:04黒沢「前職場が出版社であったり、ビエンナーレ手伝っただけとか、新卒とか、そうなるとこれまでの美術館と異なることやれと命じられるものだ。そして当時の市長は予算の1%を割いて行政は口を出さないとした。そのせいで自由にできたと思う
2015-10-18 16:15:48黒沢「91年にはクリストを・・・。水戸芸術館ではペーパー試験無く面接あり、そして論文もあったが、論文は事前に作成するものであった。 そこでアーティスト・イン・レジデンスを提案し、年一回街なかアートつまり年1コ作品つくれば50年後には50個みたいな
2015-10-18 16:17:09