思想史の中の history と theory、ときどき nature...
何となくわかるのですがこれでは誤解も生じましょう。もう少し解きほぐしてくださるとありがたいのですが。 しかもこの言葉、研究費関係の書類では(良くも悪くも)結構普及していませんか。 RT @odg1967: 「リサーチ・プログラム」という言葉…どうしようもないうさんくささ
2010-03-15 01:12:32@mori_tatsuya @adamtakahashi さんはリサーチ・プログラムの話はしてないわけだし……。ラカトシュのリサーチ・プログラムっていうのは、穏当なパラダイム論という理解でよろしかったですかね。否定的発見法(堅固な核の保持)+肯定的発見法(補助仮説+技術開発)…。
2010-03-15 02:24:58リサーチ・プログラムの細かい話は @mori_tatsuya にお願いします。『批判と知識の成長』 http://bit.ly/chMjVC は腐海(混乱した書斎)に埋もれていて、手元にあるのは学部生向けの科学論の教科書 http://bit.ly/9UynCY だけなので。
2010-03-15 02:30:44一昔前、このチャルマーズ『科学論の展開』http://bit.ly/9UynCY とか野家啓一『科学の解釈学』 http://bit.ly/dfows7 は、文系が自然科学の方法を云々する際の定番のネタ本だったと思います。「科学」とか「仮説検証」に憧れるひとは読んどいた方がいい。
2010-03-15 02:35:38科学史のひとたちが、様々な理論というか集合的な知のまとまり(学派とか研究グループとか)を同定する際の枠組みとして実際にパラダイムとかリサーチ・プログラムといった概念を用いているのかどうか、ぼくはよく知らないです。「コスモロジー」をそのような概念で捉えることはできそうですが……。
2010-03-15 02:39:21うさんくさいといったのは、ラカトシュがパラダイム論を修正するかたちでリサーチ・プログラム論を構築した(ということだったと記憶してますが間違ってたらごめんなさい)件をなんだかなあと思っているのと、あと、自分たちの研究組織のまっとうさを説明する際にこの言葉がよく用いられるからです。
2010-03-15 02:42:41ラカトシュがまっとうなリサーチ・プログラムの二つの条件として、研究に一貫性を与える堅固な核を保持していることと、新しい現象の発見に強いことという二つを挙げ、後者は満たしているが前者を満たしていないプログラムの典型として社会学を挙げているという話は何というか……(144頁)。
2010-03-15 03:04:42まあでも、前者は満たしているけど(つまり説明は一貫しているけど)、後者は満たしてない(反証性に乏しく、新しい発見に弱い)プログラムの典型がマルクス主義と精神分析だから、なんというか、文系舐められてるなって感じです。
2010-03-15 03:09:50@odg1967 全体を見直すと問題の端緒は歴史学を研究(「教育」も含んでいましたが、主な議論の焦点は「研究」だったと思います)するものたちは、一体何を学問の基礎として共有すべきか、というところでした。そこから枝分かれして、intellectual history とは何か?
2010-03-15 06:00:23@odg1967 テキストを読むとはいかなる歴史的行為か?そして、改めて「歴史家の理論と方法」とは何かという問題へと展開していったのだと思います。
2010-03-15 06:02:29@odg1967 今回の議論のオダガワさん的な焦点は、http://togetter.com/li/9176 においてまとめられていることだと理解しています(私とさかいさんが自分の tweet を追加したので散漫な感じになってしまいましたが・・)。ただ、このオダガワさんのまとめ
2010-03-15 06:06:50@odg1967 には歴史学者三人のコメントがとられていないので、彼らが何を当初問題としていたかが拾われていないと思います。勿論、オダガワさんご自身が言及されている通り、全体の議論の流れについては http://togetter.com/li/8653 などが参照されるべきです。
2010-03-15 06:11:39@odg1967 再度問題の端緒にかえると、歴史学を学ぶものたちが共有すべきものとは何か?という最初に提起された問題を、特に私は「歴史学の理論と方法とは何か?」という形で定式化しなおして問題としていました。その際に私が注意したかったのはことが何点かあります。第一に、
2010-03-15 06:21:24@odg1967 特に若手の西洋史家たちは古文書館などのアーカイブに足繁く通って史料と向き合い、時代背景などの全体を視野に入れつつ、史料を批判的に検証し何が事実であったのかを明らかにしようとしていますが、もし「歴史学の理論と方法」というものがあるとすれば、彼らの「現場」の作業から
2010-03-15 06:22:22@odg1967 乖離した「理論と方法」というものがあるべきではないだろう、ということでした。「表象とは何か」「仮説検証とは何か」といった(歴史・科学)哲学的な問いや、また時代区分や基本的な概念(例えば封建制とは何か?とか)は、特に一次史料に密着しているものたちに「生理的な反発」
2010-03-15 06:27:04@odg1967 を招くものでしかないものだったからです。ですから、オダガワさんがご指摘なさったように「理論というのは個別的な事象の背後に規範とか法則といった普遍的な何かを見ることを意味する言葉」ということは理解できますが、単にそれだけを言うと、「現場」の歴史家たちの与り知らぬ
2010-03-15 06:30:00@odg1967 ものとなるのではないかと感じていました。第一点をまとめると、史料館などの現場の歴史家たちの作業から乖離した「理論や方法」というものがあるとすれば、それは歴史学にとって不要とまではいわないにしても、少なくとも彼らにとって厭わしいものだと思われているという点。
2010-03-15 06:32:10@odg1967 第二点目は、ただし、このように現場の歴史家たちの作業があるとはいえ、「歴史学の理論と方法」といったものが提起された時に彼らが生理的に催す反発には、かなり怪しい前提があるのではないか?つまり、彼らはきちんと「理論と方法」とは何かを吟味しないままに、嫌悪感だけを
2010-03-15 06:34:35@odg1967 つのらせているのではないか?という点です。というのも、以前言及しましたが、American Historical Review という米歴史学会誌(?)には、書評の欄で毎号「理論と方法」というものが「特集」の後に別枠で設けてあります。では、アメリカの歴史家たちは
2010-03-15 06:38:29@odg1967 毎号相変わらず、史料批判の「方法」や、「表象とは何か」「仮説検証とは何か?」「国家とは何か」といった普遍的な「理論」だけを問うているのだろうか?もしくは、それらに新しい知見がもたらされているのか?少なくとも私の理解では、そうではないと考えていました。
2010-03-15 06:42:09@odg1967 そうすると、もし若手の歴史家たちが「理論と方法」といった時に、その内容自体を吟味することなく、単に「生理的な反発」を催すだけならば、それは彼らが現場に密着しているからという現実があるからというよりも、単に無知なだけ?ということになるのではないか?
2010-03-15 06:47:07@odg1967 この第二点をまとめると、歴史家は「理論」といった時に生理的な反発を催すが、それは現場の作業にとって無駄だということだけではなく、むしろ彼ら自身がその内実を吟味していないだけなのではないか?彼ら自身が理論と方法というものを極端に矮小化して理解しているのではないか。
2010-03-15 06:52:12@odg1967 そして、この第二点目から派生するものとして、「史料批判」という基本的な方法(ただし、これ自体極めて高度な作業であり、習得には長年の経験が必要)以上の「理論と方法」というものに歴史家が無関心のために、「歴史学プロパー」以外の者にとって、歴史家の作業は、よく言って
2010-03-15 06:56:42@odg1967 「秘儀」、悪く言って単に過去の事実を掘り起こしている「だけ」で、個々の歴史家が対象とする時代・地域の内実に精通していないものには、一体何を企図しているのか理解できないものとなっているのではないか?結果として、他分野とのポジティブな会話を妨げているのではないか?
2010-03-15 07:07:50@odg1967 以上を再度要約します。第一に、文書館などで史料と向き合っている歴史学者の現場の作業から乖離した「歴史学の理論と方法」は、少なくとも歴史学者にとっては有益ではない。第二に、ただし、歴史学者自身が「理論と方法」を矮小化しすぎている可能性がある。この第二点から派生して
2010-03-15 07:13:18