- simasyodes
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昭和23年(1948)3月17日弁護団金井重男らは裁判やり直しを求めの嘆願をマッカーサーを送っていた。曖昧な証言や偏見に満ちた検察の公判に充分な審理が行われていないと訴えている。
2016-06-23 23:10:10弁護団は田口の意見書も添えて、「いかに下級の者が処刑という上官の命令に抗しきれない」かを第8軍司令に訴えたが覆ることはなかった。(ただ全体で41人死刑が13人に減っている)
2016-06-23 23:11:01田口は生前、弟の守に送った手紙には、学生の弟に学業に励むように促した後にこう記している。 【必ず中道を歩まねばなりません。思想的、その他すべての点に偏った所には疵(きず)が出来るものです。】
2016-06-23 23:11:31死刑が決まったのは7名 井上乙彦大佐 井上勝太郎大尉 幕田稔大尉 榎本宗応中尉 成追忠邦一等兵曹 藤中松雄二等兵曹 そして田口泰正の名があった・・・
2016-06-23 23:12:15前島勇市少尉 北田満能兵曹長 炭床静男兵曹長 桑江良勇上等兵曹 瀬山忠幸一等兵曹 桑野左八二等兵曹 以上の者は死刑から終身刑、または懲役五年に減刑された。
2016-06-23 23:12:25昭和25年(1950)4月6日は田口は遺書を認め、その日を迎えた。(内容はこれまでのこと執行直前の様子を綴った。全文は著作にありますので割愛します。)
2016-06-23 23:13:57翌7日午前0時過ぎ、田口は絞首台に消えた。 享年27 遺体は処刑された7人とともに火葬され遺灰は相模湾に撒かれたとも言われるがわかっていない。
2016-06-23 23:14:15ひとずちに世界平和を祈りつつ 円寂へいましゆくなり 田口辞世の句である。(獄中で句会の集まりに加わるようになっていた)
2016-06-23 23:15:15田口の最期に立ち会った教誨師田嶋隆純は密かに遺される家族へ宛てた遺書を持ち出した。(両親、兄弟、祖父母への三通、自分の死を受け入れ強く生きるようにとの内容、全文は著作にありますので割愛します。)
2016-06-23 23:15:31弁護人金井重男は遺族に対して田口の死を告げ、生前預かっていた二つの和歌を添えている。 日のひかり射し来し房の窓玻璃に 額寄すればぬくときものを 水うつるわが面はかく朝の光に 若き生気溢るるもののを
2016-06-23 23:15:48遺骨は連合軍に管理下で火葬され共同墓地に葬られており、仮に帰ってきても本人ではない可能性がある旨が伝えられた。(後述)
2016-06-23 23:16:31田口は「最期の死刑囚」となった。そう朝鮮戦争の激化と対日講和によりアメリカから日本へ巣鴨プリズンは移管され、移管後は処刑は一切行われず昭和33年(1958)5月死刑囚含む全ての受刑者は釈放された。
2016-06-23 23:17:10「あと2ヶ月・・・」弟の守は運命を呪った。処刑の2ヶ月後、巣鴨プリズンを管轄する部隊は韓国に転属して日本側への移管の流れが始まる。父親巳一郎は息子の死から酒へ走り、田口の死から一年後に後を追うよりガンで亡くなった。享年52
2016-06-23 23:17:53田口が無言の帰宅を果たしたのは昭和27年(1952)の秋だった。小樽市から通知を受けた遺族が僅か骨片らしきものと遺灰が入った骨壷を受け取った。
2016-06-23 23:18:09死刑囚の遺体はすぐ火葬され遺族に帰っては来なかった。しかし火葬場の日本人の中には密かに遺骨や遺灰を持ち去り、敷地の一角に隠しており日本独立後に刑死した人数分に分けて、遺族に届けた。(田口の遺骨もその一部と思われる)
2016-06-23 23:18:29