- simasyodes
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4月8日の東京版朝日新聞社会面の片隅にこのことがある。 「【AP特約】一九四五年四月米軍空軍乗員を虐殺した元石垣島海軍守備隊員七名は、七日未明巣鴨拘置所内にて絞首刑を執行された。」ただの四行の記事が今日の話である。
2016-06-23 22:32:32今日の主人公田口泰正は大正11年(1922)7月19日北海道小樽に生まれた。父巳一朗、母ゆきの長男で父は鉄工所を経営していた。
2016-06-23 22:42:02父に本人は厳しく育てられたが大人しく学校のカエル解剖も出来ず「虫も殺せぬ男」だったやがて勉学に励み、水産講習所(現在の東京水産大学)へ進学する。
2016-06-23 22:43:31しかし時代は戦争中であり、昭和18年(1943)10月学生の徴兵猶予がなくなる。所謂「学徒出陣」である。田口も海軍に入隊した。
2016-06-23 22:46:26田口が入隊したのは12月でその頃、学徒出陣した面々には戦後、プロ野球で活躍した別当薫や水戸黄門で知られる俳優西村晃、ニュースキャスターから参議院議員となった田英夫らがいる。
2016-06-23 22:47:43そして田口が問題となる石垣島の海軍警備隊に着任したのは昭和20年(1945)1月29日で4ヶ月前に少尉候補生に任官したばかりの若者が第一小隊長となった。
2016-06-23 22:52:08田口はこの時22。石垣島は井上乙彦大佐の海軍警備隊がおり、陸戦や対空監視、震洋(特攻ボート)部隊がその任に当たっていた。
2016-06-23 22:52:25昭和20年(1945)4月15日石垣島の飛行場空襲を任を受けた米第38機動部隊の護衛空母マカッサ・ストレイトから飛び立ったグラマン1機が対空砲火に撃墜され、乗員3人は警戒していた海軍警備隊に捕らえられた。
2016-06-23 22:52:54グラマン乗員は以下3人 バーノン・L・ディボー中尉(操縦)28歳 ウォーレン・H・ロイド兵曹(通信)24歳 ロバート・ダグル・ジュニア兵曹(機銃)
2016-06-23 22:53:34海軍警備隊司令官の井上乙彦はその日には「捕虜の処刑」を決めており、台湾の輸送手段がなく、捕虜を養う食糧がない、部隊の士気高揚を主な理由として副官の井上勝太郎大尉にその旨を伝えた。
2016-06-23 22:54:02ロイド兵曹は40名の人間に銃剣で突かれ絶命した。(尋問に反抗的とされ刺殺となった)そしてダグル兵曹を「斬る」番になった。
2016-06-23 22:55:17田口は刀を振り下ろしたが「首」を落とすには「技量」が必要であるという、斬り落とせず3分2胴体に残ったままであった。 ダグル兵曹は二十歳であった。
2016-06-23 22:55:50昭和20年(1945)8月15日日本敗戦。石垣島は陸上戦闘はなく終戦を迎えた(ただマラリア被害で軍人600人島民3800人余りが亡くなっている。 戦争マラリア)
2016-06-23 22:56:18米軍の占領に備え井上乙彦は「あの遺体」の掘り出しを命じ、更に焼却して灰は海中に投棄させた。そして十字架を建て「丁重に葬った」と偽装して米軍占領を「乗り切った」
2016-06-23 22:56:38昭和20年(1945)11月に復員、小樽に帰り、昭和21年(1946)2月水産講習所(現在の東京水産大学)へ復学が認められ、田口は勉学の道に戻った。戦犯の裁判は各地で始まっていたがまだ田口は運命を知らない。
2016-06-23 22:57:03昭和22年(1949)2月19日 田口はいつものように水産講習所(現在の東京水産大学)で講義を受けていた所を突然現れたMPに連行された。
2016-06-23 22:57:11