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佐々木敦 @sasakiatsushi
遂に東浩紀『観光客の哲学』が一般書店で発売されましたね。ネットではもう大分前から祭り状態ですがw、僕は豊田市美術館に行った帰りの新幹線で読み終えて、誰もが手に取れるようになるまでツイートを差し控えてきました。幾つもの意味で真に挑戦的と言ってよいこの書物の感想を以下に記します。
佐々木敦 @sasakiatsushi
まずこの本には二つの題名がある。『ゲンロン0』と『観光客の哲学』。このこと自体の「挑戦」があるわけですが、そのことについては後で触れます。オビには「集大成にして新展開」とあります。まったくその通りだと思います。だとしたら問われるべきは、どのような意味でそうなのか、ということです。
佐々木敦 @sasakiatsushi
ネットを覗いた限りでは、すでに読んだ方たちの多くから「わかりやすい」「議論がクリア」といった感想が寄せられているようです。これも実にその通りだと思います。けれどもそれと同時に、僕はこれは魅力的な謎と秘密に満ちた本だと思います。
佐々木敦 @sasakiatsushi
まず構成が不思議です。全体の3分の2近くを占める第1部が「観光客の哲学」、それよりずっと短い第2部は「家族の哲学(序論)」とされています。第1部はひと繋がりの議論ですが、第2部はイントロと言ってよい第5章に続いて、ほぼ独立したかたちでも読める二つの文章が置かれています。
佐々木敦 @sasakiatsushi
第6章は「不気味なもの」と題されていますが、僕なりに言い換えると「インターネット後の存在論」にかんする論考です。そしてとりあえずの最後に置かれた第7章は一種独特なドストエフスキー論です。『ゲンロン0/観光客の哲学』は、このような構成を持っている。なぜ、こうなっているのでしょうか?
佐々木敦 @sasakiatsushi
少なくともここには三つの「謎」がある。「観光客」と「家族」は、どう繋がっているのか? なぜ「家族の哲学・序論」が先の二つの論考なのか? そしてこの二篇は全体の中で如何なる意味を持っているのか? もちろん説明はされていますが、ここには本書の「秘密」が隠されているのではないだろうか。
佐々木敦 @sasakiatsushi
そこで思い出したことがあります。確か2009年なので、もう随分昔のことですが、朝日新聞社から当時出ていた雑誌「論座」で、東浩紀、大澤信亮、僕の鼎談が組まれたことがありました。聡さんじゃなくて信亮さんですよ。そういう時代もあったんですね(僕はまだ『ニッポンの思想』を書いてません)。
佐々木敦 @sasakiatsushi
で、座談会で何を話したのかは忘れてしまったけど、終わってから三人で食堂でダラダラ延々と喋ってたんですね。で、その中で東さんが「ここにいるリアルな自分よりもネット上で色んな人に見られたりああだこうだ言われてる自分の方が本物の自分のような気がする」みたいなことを言ったのです。
佐々木敦 @sasakiatsushi
あんまり正確ではないですが、大体こんなこと。そしてこの頃、東さんは同様のことを幾つもの機会で言っていたと思うので、おそらく聞いた/読んだことがある人は多いのではないかと。で、僕はこの発言がすごく印象的で、その後もずっと気になっていたのです。
佐々木敦 @sasakiatsushi
「観光客」という概念は、この話と関係あるというのが僕の感想です。『観光客の哲学』の第一部は、前著である『弱いつながり』と極めて強いつながりを持っています。より正確に言えばそれは『弱いつながり』を更にその前の『一般意志2.0』の議論に接続したものです(それだけではありませんが)。
佐々木敦 @sasakiatsushi
すごくざっくりと言ってしまうと、デビュー作『存在論的、郵便的』で、そのような語彙をまったく使わずに素描され、のちの一連の理論的著作で彫琢されてきた「インターネット以後の主体」の、可能性としての理想的/肯定的な様態は、現実としてはそうはならなかった。それは可能態に終わってしまった。
佐々木敦 @sasakiatsushi
この、ありうべきだったがそうはならなかったイデアルな可能態としての「ネット以後の主体」をリアルワールドへと裏返したものが「観光客」なのだと僕は思います。もちろん、このリアルには「ネット」も包含されています。
佐々木敦 @sasakiatsushi
第1部の後半で「観光客」は「郵便的マルチチュード」と言い換えられますが、それはかつてネットが夢見た存在の様態の別名です。だが、インターネットにおける主体は、そのようには進化(?)していかなかった。ネットは「新しい主体」を産み出しはしなかった。人間はやはり人間でしかなかった。
佐々木敦 @sasakiatsushi
「観光客」は、世界のあちこちに出かけていって、そこでさまざまなものを見たり、いろいろな人たちと仮初めの関係を持ちます。それは同時に向こう側によって見られ、関係される、ということでもある。それはいわゆるネットユーザーのあり方とよく似ている。だがその舞台はリアルワールドなのです。
佐々木敦 @sasakiatsushi
第2部第6章は「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」の論じ直しとしての側面を持っていますが、この論が他でもないここに置かれている理由は、そこでその不/可能性を問われていたサイバースペース内の主体のイデアルな可能態が、リアルの「観光客」へと変異していったからなのだと僕は思います。
佐々木敦 @sasakiatsushi
では、ここで翻って,もう一度問うてみます。どうして「ネット以後の主体」はポジティヴな様態になり得なかったのか。いったい何が間違っていたのか。そこには何が足りなかったのか。
佐々木敦 @sasakiatsushi
観光客とネットユーザーは似ているが違うところがある。観光客は庇護された一方的な観客ではない。彼らもまた見られている。たとえ数日或いは一日しかそこにはいないのだとしても、そして二度と再訪することがないのだとしても、現地の誰かとかかわるということは、かかわられるということでもある。
佐々木敦 @sasakiatsushi
こうして「家族」という概念が登場する。文中でも繰り返し述べられているように、この「家族」は具体的現実的な「家族」のことというよりも、もっと理念的なものです。ある意味で「家族」より「家族的類似性」の方がはるかに重要です。それは「弱いかかわり」による「弱いつながり」のことです。
佐々木敦 @sasakiatsushi
つまり「観光客」であるだけではやはりまだ足りない。なぜならそれではすでに失敗した「ネット的主体」的な様態に後退することが出来てしまうから。一方方向ではなく双方向的な関係性。だが同時に互いを無理に拘束するようなものではない関係性。「観光客」であり且つ「家族」でもあるということ。
佐々木敦 @sasakiatsushi
だから「観光客」と「家族」の間に何らかの共通点を見出そうとするのは間違っている。そうではなく、二つは別々のものであり、だからこそ両者の止揚が重要なのだということです。あくまでも「観光客」として、どこかの誰かと「家族的類似性」を結ぶこと、あるいはそれを発見すること。
佐々木敦 @sasakiatsushi
第1部第1章で東さんは、これは「他者」という言葉を極力使わない「他者論」なのだ、といった意味のことを書いています。さっきから何度か「主体」と書いてきましたが、と同時にこの本は紛れもなく「他者とどう共生するか」を問うたものだと言えます。それはもちろん「共同体」論でもある。
佐々木敦 @sasakiatsushi
だからこそ、最後のドストエフスキー論の最後で提示される「偶然の子どもたち」という美しい言葉=概念には、「観光客」と「家族」が止揚された後の、更なる広がりの、そのつづきの風景が垣間見えていると思えます。
佐々木敦 @sasakiatsushi
「序論」と銘打たれた書物に「本論」が書かれることは滅多にないという常識はさておき笑、これは絶対に続きが読みたい。出来ればこの三倍くらいのヴォリュームで!
佐々木敦 @sasakiatsushi
最後に、最初に戻りますが、このような書物を「ゲンロン」の一巻として自社から刊行したということは、内容とは別に、これからの人文学と出版を考える上で、極めて野心的であり、示唆的だと思います。だがそれは実践的でもある。誰もが考えられなくはないが、誰もやらなかったことを、東浩紀はやった。
河村書店 @consaba
『ゲンロン0 観光客の哲学』東浩紀(ゲンロン)否定神学的マルチチュードから郵便的マルチチュードへ――ナショナリズムが猛威を振るい、グローバリズムが世界を覆う時代、新しい政治思想の足がかりはどこにあるのか。amzn.to/2pqEEjW #jamtheworld
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