【文豪とアルケミスト】藤村と独歩の終焉の地、大磯と茅ヶ崎を訪ねる【文学散歩・舞台探訪】

2017年3月31日、大磯町と茅ヶ崎市において、「文豪とアルケミスト」に登場する文豪ゆかりの場所を巡った時の写真です。
2

・今回紹介した文豪
国木田独歩、坂口安吾、島崎藤村、谷崎潤一郎、田山花袋、正岡子規

アザラシ提督 @yskmas_k_66

ではでは、この間の横浜文アル散歩のつづきをツイートしていきましょうか。 togetter.com/li/1101467

2017-04-17 23:59:20
アザラシ提督 @yskmas_k_66

2017年3月31日、この日の天気は次第次第に崩れていきました。昼過ぎに横浜駅から東海道線下りの電車に乗りまして、途中の大船駅を過ぎるころには雨がぽつぽつ降り始めていました。

2017-04-18 00:01:44
アザラシ提督 @yskmas_k_66

【大磯駅】 31日午後の目的地のひとつ、大磯駅です。ここ大磯は正岡子規が何度か訪れ、他方で島崎藤村が晩年を過ごした地です。 pic.twitter.com/OOe3OrlxG7

2017-04-18 00:04:33
拡大
アザラシ提督 @yskmas_k_66

【島崎藤村旧邸】 大磯駅から徒歩5分ほどのところにある、島崎藤村が晩年を過ごした家です。少し大きめの門を持つ、三間の平屋建ての小さな家です。藤村はここで小説「東方の門」を執筆していました。 pic.twitter.com/bFLzZZN1g9

2017-04-18 00:06:24
拡大
拡大
アザラシ提督 @yskmas_k_66

彼が長編『夜明け前』を完結させて、はや数年。次なる作品へと筆を走らせている途中の1943年8月21日のこと。藤村は脳溢血の発作で倒れ、そのまま眠るように、翌22日0時35分に息を引きとりました。71年の生涯でした。 pic.twitter.com/CJaVbl9qLX

2017-04-18 00:07:35
拡大
拡大

島崎静子「一人の甥に与ふる手紙」(青木正美『知られざる晩年の島崎藤村』国書刊行会 1998年 232頁からの引用)
「茶の間は近頃午前中、東の方からいつもいい風が吹いてきます。伯父さまは、東の方の庭へ眼をやって、じっと見ているかと思うと「涼しい風だね。」と言ってお庭から眼を離さず、見つめていらっしゃいます。実に楽に気もちよさそうです。またもう一度、同じ言葉をくりかえして、涼風の過ぎるのを感じている様子です……そのまま深い昏睡、意識は遂にかえりませんでした。呼吸は翌日零時半頃までありましたが、何んの苦しみも来ず燃えつくした炎の余燼にすぎませんでした。容易ならぬ状態でいながら、涼風を味っていらっしゃる言葉は、実はその時、私には不思議に聞えました」

アザラシ提督 @yskmas_k_66

家の中はこのような感じです。 pic.twitter.com/PybcfeUi6g

2017-04-18 00:09:26
拡大
拡大
拡大
拡大
アザラシ提督 @yskmas_k_66

『藤村全集』やパネルがあります。 pic.twitter.com/mLpfhitNZi

2017-04-18 00:11:27
拡大
拡大
拡大
拡大
アザラシ提督 @yskmas_k_66

【鴫立庵】 藤村旧邸をあとにして、国道1号線へ出ます。大磯駅方面へ歩いていると、「鴫立庵」というこれまた風情のある建築物があります。今は俳諧の道場やカルチャーセンターとして用いられているようです。 pic.twitter.com/6NO1HlpbGn

2017-04-18 00:19:28
拡大
拡大
拡大
拡大
アザラシ提督 @yskmas_k_66

【新島襄終焉の地の碑】 大磯は、同志社英学校(同志社大学の前身)の創始者、新島襄が亡くなった地でもあります。新島襄はここにあった旅館百足屋で療養していましたが、急性腹膜炎により1890年1月23日に46歳で亡くなりました。 pic.twitter.com/77w0DOMqez

2017-04-18 00:24:18
拡大
拡大
拡大
拡大

cf. 太田雄三『新島襄』ミネルヴァ書房 2005年 310~315頁

アザラシ提督 @yskmas_k_66

【新杵】 老舗和菓子屋さん「新杵」。大磯に移り住んだ島崎藤村も、このお店のお菓子を食べたといいます。今回は「虎子饅頭」を家族へのお土産に購入しました。 pic.twitter.com/k7eAlPBdEm

2017-04-18 00:27:09
拡大
拡大
拡大

cf. 青木正美『知られざる晩年の島崎藤村』国書刊行会 1998年 181~188頁

アザラシ提督 @yskmas_k_66

【地福寺】 島崎藤村夫妻が眠る、地福寺。二人のお墓はお寺に入って左手側、梅の木に囲まれるように、並んで立っています。 pic.twitter.com/ZTjUgOuR20

2017-04-18 00:29:03
拡大
拡大
拡大
拡大

cf. 青木正美『知られざる晩年の島崎藤村』国書刊行会 1998年 242~256頁

アザラシ提督 @yskmas_k_66

【大磯迎賓館】 大磯駅前にある大正期の洋館です。今はイタリア料理店として利用されています。 pic.twitter.com/qeknc6WuqQ

2017-04-18 00:30:15
拡大
拡大
アザラシ提督 @yskmas_k_66

【大磯駅〜茅ヶ崎駅】 東海道線の上り電車に乗り茅ヶ崎へ。続いて、茅ヶ崎駅北口からバスに乗り、浜見平方面へ。この茅ヶ崎ですが、坂口安吾が一時住もうとしていたらしく、彼の書簡の中には「家を借りる約束をしている」という一文が見えます。 pic.twitter.com/Ul0uf6zdDD

2017-04-18 00:38:02
拡大
拡大
拡大
アザラシ提督 @yskmas_k_66

【南湖院】 ここが、結核を患った国木田独歩が入院し、最期の時を過ごしたサナトリウム「南湖院」です。独歩は病院においてもワガママ放題で、仲間とワイワイ騒いだり、病室から抜け出して魚釣りに行ったこともあるとか。 pic.twitter.com/nCz04AQROz

2017-04-18 00:40:55
拡大
拡大

 病院のスタッフからしてみると、入院中の独歩に対して思うところがあったようです(高田耕安・中村愛子・中村武羅夫「病院に於ける獨步氏」『定本 國木田獨步全集(10)』学習研究社 1995年 199~205頁)。
「病院に於ける國木田獨步氏に就て…(中略)…、どちらかと云ふと、獨步氏は吾が儘であつた。自分の爲さんと欲する所は、醫員の言も、看護婦の言も一切斥けて用ゐず、病氣に好くても惡くても、自分の思ふ通りになされた…(中略)…。
 氏は非常な釣好きであつたそうですが或日のこと祕密で誰かに背負さつて氏の病室からは四、五丁も隔たつた馬入⁽¹⁾の河邊に釣に行かれ(但し何も釣れなかつたさうです)それから附近の畑の中へ食事を運ばせて晝餐をして歸られたとかで、折角まあ心ゆく思ひはされたのでしたが、其後熱が昇つたので大層弱り込んで居られたことも御座いました」

 独歩は友人からのお見舞いの品のカステラや鰻をたいらげつつも、その一方で、自分が少しずつ死に近づきつつあることを自覚していました。それでも、新たな作品に取り掛かるべく、構想を練っていました(前田木城・吉江孤雁「茅ヶ崎時代」『定本 國木田獨步全集(10)』学習研究社 1995年 283頁)。
「『天若し吾に十年の歳月を借さばと願ふけれど……駄目だ……僕は今『砂丘』と題するものを何時でも書けるやうに頭の中で作つて居る。其れは斯ふ云うのだ「南の空は靑々と晴れて、穩やかな春の光は陸にも海にも充ち滿ちて居る」。何の細工もなくシンプルで而も印象を明かに書き度いと思つて居る。「砂丘」の作意はシンボリツクだ。』と云つて其の大意を物語られた」


(1) 相模川の河口付近のこと。(s.v. 「馬入川」『日本大百科全書(19)』小学館 1988年 3頁)

アザラシ提督 @yskmas_k_66

独歩は南湖院において牛肉や果物などを好んで食べていました。亡くなる直前にも「アイスクリームが食いたい」と言い、病院のスタッフがまさに作っていたところで独歩は喀血、「ああ、息がふさがったようだ」というのが最期の言葉だったそうです。 pic.twitter.com/FIL1d39rbp

2017-04-18 00:42:43
拡大
拡大

「死亡〜追悼會報道記事」『定本 國木田獨步全集(10)』学習研究社 1995年 526頁